第9回:船旅でのおしゃべり(山口亮太)

森と河をつなぐ―コンゴにおける水上輸送プロジェクトの挑戦

コンゴ民主共和国でフィールドワークを続けてきた私たち3人(松浦直毅、山口亮太、高村伸吾)は、困難な生活を乗り越えようと血のにじむ努力をしている森林地域の人々の姿を目の当たりにし、彼らの取り組みを後押しするためにひとつの企画を発案しました。それが水上輸送プロジェクトです。

2017年夏、地域の人々と私たちの協力のもとでプロジェクトが実施されました。その一部始終をご紹介いたします。

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気になる空模様

「いやぁ、あの雲は良い形をしていますねぇ。」

船旅の間、この台詞を何回口にしただろうか。はじめは、舟から見える川の水面と熱帯林の深い緑と青い空のコントラストに目を奪われ、その中に悠然と浮かんでいる雲の様子に対して純粋に感動を覚えての発言だったのだが、それも回数を重ねるごとに「今日は良い天気ですね」程度の意味しか持たなくなってしまった(写真1)。松浦さんとタカムラも、はじめは「確かに!」と、カメラを取り出して写真に収めようと四苦八苦していたが、徐々に「今日は何回目よ、その発言?」などと言いはじめ、しまいには何の反応も返してくれなくなってしまった。

写真1.絶景その一。コンゴ川に沈む夕日を眺めていると、心が洗われる。

確かに、僕はことあるごとに空模様を気にし、そのたびに天気について何か一言述べていた気がする。船旅で雨が降るのは非常に気が滅入る上に、雨に濡れても働かねばならない船員たちにとって大きな負担となる。それに、雨には風がつきものなので、静かな水面が波立ち、舟がけっこう揺れるのだ。コンゴ川は、流域面積世界第2位を誇る大河であるが、ほとんど高低差がない中を流れていくため、普段の川の流れは極めて穏やかである(写真2)。勢いよく流れる日本の河川とは違って、普段の水面はまるで磨き上げられた鏡のように空や岸辺の木々を映して美しい。しかし、雨とともに風が吹き始めると、表情は一変する。

写真2.絶景その二。森と川の境目を忘れるほど、水の流れは穏やかである

今回の船旅でも、コンゴ川の本流に出たあたりで酷い大雨に降られたが、その際には激しく波打ち上下する水面と、吹き付ける強風による飛沫のために、同乗していたワンバ村とイヨンジ村の選抜メンバーたちが「舟を停めてくれ!」や「俺たちはここで死んでしまうんだ!」と叫び出すほどだった。波と言っても海の荒波と比べればどうというほどでもないため、彼らの反応はやや大げさに見えて、少し笑ってしまった。ボンガンドの人びとの普段の生活では、天気の良い日にしかけておいた漁網を見回るために狭い支流を行き来する程度であり、大河のただ中で波に揺られるというのは、よっぽど恐ろしい経験だったのだろう。もっとも、大きいとはいえ喫水線の浅い丸木舟に、積み荷を満載しているのだから、彼らでなくても不安にはなる。それに、我らがワイワイ号は、ビニールシートをかぶせた即席の屋形船となっているわけだが、ところどころ穴があいていたり、微妙に覆いきれていない部分があったりするので、雨が降ると積み荷が濡れてしまう心配があった。こんな訳で、僕は天気のことをいつも気にしていた。そのため、空を眺める時間が長くなり、自然と雲を探している状態になるのである(写真3)。

写真3.絶景その二。こんな空模様で気にならないわけがない。

船旅でのおしゃべり

舟の速度は、時速10キロメートルを超える程度なので、穏やかな水面をのんびりと進んでいく。ときおり、川辺の森の奥に隠れるようにして小屋が見える。魚を捕るための一時的なキャンプだが、中には長期的に滞在している人もいるようだ。2011年に遡上した際には、キャンプの住民から魚や獣肉を購入した際、現金とともに石鹸や塩を求められることがあった。いずれも、人里離れたキャンプでは手に入らないものである。また、半ば遺跡と化したような輸送船とおぼしき残骸や、森の中に半分埋まっているようなコンクリート製の建造物が見られることもある(写真4)。かつての水上交通や外国籍企業の活動のなれの果てである。今では、ワンバ地域は経済的な中心地から遠く離れた森の中の孤島という様相だが、かつては定期船も行き来しており、河川を中心とした経済活動が確かに息づいていたのだ。

写真4.かつての輸送船の残骸。手前はワンバ村のアルフォンス

そういう重要なポイントにさしかかると、パパ・デュドネ(通称・組長)がすかさず解説を入れてくれる(写真5)。彼は、若い頃にキンシャサに出て商売を学び、その後はワンバ地域とキンシャサを行き来する生活を送っていたそうで、往時の経済活動にも詳しいのだ。村の選抜メンバーの面々にも、当時のことを知る人びとがいる。特に、イヨンジ村の二人、50歳前後のパパ・ガリと60歳前後のパパ・カミーユは、他のメンバーよりも年齢がかなり上で、戦前の様子に詳しい。パパ・ガリは、80年代から90年代にかけてキンシャサにあるビスケット工場などで働きながら生活していた。そのときに、今回、船の操縦を担っている「船長」ことパパ・デサンブルと懇意にしていたらしい。パパ・ガリも、定期船に乗ってあちらこちらへと移動していたようで、キンシャサ暮らしのあれこれも交えながら、当時のコンゴの様子を色々と解説してくれる。パパ・カミーユは、なんと、若かりし日に、われわれが進んできたコンゴ川の支流・マリンガ川の水源にまで行ったことがあるという。われわれのあいだではひそかに「おじいちゃん」などと失礼な呼び方をしていたが、これからは敬意を持って「老師」と呼ぼう。ただ、残念なことに水源への旅の詳細は聞けずに旅を終えてしまった。いかなる理由で、水源を訪ねようと思い立ったのか・・・。若者でも、「主任」ことワンバ村のアルフォンスは、キンシャサでパソコンを使った情報工学を学んでいたそうで、定期船での移動の経験者であった。2005年に彼が遡上した際には、乾季だったために乗っていた定期船が中州に引っかかってしまい、雨が降るまで2週間も足止めを食ったという。

写真5.解説を入れるパパ・デュドネ

日没後に停泊し、美味しい食事をとった後のリラックスした時間は楽しいものだった(写真6)。ワイワイ号は、われわれ日本人3人の日程の都合もあって、基本的には昼夜を問わず先に進む。ソーラーパネルで充電されたバッテリーを用いて蛍光灯をつけられるのだが、それは夜の食事の際に点けられるのみで、夜間の航行は月明かりと懐中電灯を頼りに行う。そのため、月が出るのを待つついでに、しばしの休息をとるのである。食後は、どこからともなく蒸留酒のロトコが出てくる。船内には、文字通り売るほど蒸留酒が満載されているのである。村の選抜メンバーだけでなく船員たちも、自分たちが売るための蒸留酒を積み込んでいた。道中の楽しみのための分もまた然りである。酒を飲めば、話は弾む。選抜メンバーのなかには酒を飲まない者もいるが、酒の席ではみな嬉々としてくだらない話に花を咲かせる。タカムラが昔の彼女に手ひどく振られた話で笑いと同情を誘うと、今度はアルフォンスがキンシャサで酷い女に引っかかった話を披露する。その次は僕、次は松浦さん…というように、話はどんどん弾んでいき、真っ暗な水面に笑い声が響き渡る。そして、一人また一人と寝床につき、日が変わる頃に再出発する。寝床から外を見上げると、日本では絶対に見られないような見事な星空が広がっている。満天の星空の中、月の明かりを頼りに船は進んでいく。

写真6.ある日の食事風景。

このように、空模様や移りゆく風景を眺めながら、近くにいる人ととりとめもない話をするのが僕らの船旅での日課であった。とにかく、時間だけはたっぷりあるのだ。

実は危うかった食事事情

流れゆく景色を眺め、船旅の仲間たちと雑談に興じ、飯を食って寝るという暮らしは楽しいものだが、2、3日もすると慣れてきて、暇を持て余すようになってくる。ウネウネと曲がりくねった川の流れを進むたびに少しずつ川幅は広がり、カーブは緩やかになり、森の木々に埋め尽くされた空もその面積を大きくしていく。旅の進行につれて、僕の心も徐々に晴れやかになっていく…となれば良かったのだが、むしろボーッとしてしまう方が多くなっていた(写真7)。松浦さんですら、今回の調査でサスライアリに食い破られたエアマットにゴロリと横になっては、徐々に抜けていく空気を補充することに執心しているありさまである(写真8)。出港のときに感じた、あの達成感と開放感、そしてこれからの船旅に向けての心地よい高揚感は何だったんだろうかと言いたくもなる。松浦さんなどは、出港までの準備に追われた日々のことに思いをはせてのことだろう、「いやぁ、感極まったよ」と冗談めかして言っていたが、心なしか目元に光るものがあったほどなのに。出港までの準備の期間、僕も松浦さんも散々頭を悩ませ、夜遅くまで金勘定をやってきたこともあって、ようやくここまでこぎ着けたかという思いもひとしおであったのだが、数日でこの落差である。

写真7.出港して数日でこの体たらくである(松浦撮影)。白目をむいて口が半開きの写真もあったが、さすがに見せられない。

写真8.昼寝する松浦さん。エアマットはすでに空気が抜けている様子である。

そんなボーッとした僕に代わって、というわけではないだろうが、船旅ではタカムラの活躍が光っていた。彼は、本業である巡回商人の調査のおかげで船旅に慣れており、僕や松浦さんでは気がつかないようなことをよく見抜いた。僕が一番印象に残っているのは、出発してから程なく問題となった、食事についてだ。2011年に僕が木村さんと遡上した際に、ほぼ毎日、道中で漁師から新鮮な魚を買っていたという経験から、何かしら手に入るだろうと考えていたのだが、それと比べると今回は漁師に遭遇する回数は少なかった。もちろん、当座の食料はわれわれの方で用意してあったし、いざとなれば積み荷である乾燥魚や家畜を食べるという最終手段もあったので安心していたのだが、船員たちが十分に食べられているかということまで気が回っていなかったのである。

しかし、タカムラは船員たちが心なしか元気がないことをいち早く察知し、そのおかげで彼らの食事が足りていないということが明らかとなった。意外にも、タカムラが問い詰めるまで、船員たちは十分な食事にありつけていないことをわれわれに対して言ってこなかったのである。ワンバ地域の住民は、直裁に要求を伝えてくる人が多いのだが、船員たちは初めての「白人」(コンゴでは日本人も「白人」の範疇に入る)との仕事で、われわれに対して遠慮があったのかもしれない。タカムラが船員に確認した際も、やや気恥ずかしげに食事が十分ではなかったことを認め、「食べ物がなければ、我慢して寝るだけさ」と言うのだ。何だか調子が狂う反応である。

写真9.食事係の面々。船員のジョナタン(左)とワンバ村のフェリー(右奥)とイヨンジ村のフィデル(右手前)

この一件があって、食事の準備態勢がタカムラ主導で見直された。食事係である船員ジョナタン、ワンバ村のフェリー、イヨンジ村のフィデルらと相談して、船員の分の食事もきちんと用意すること、それに必要な食料については遠慮無く申し出るように確認したのである(写真9、10)。漁師から魚を購入する際にも、彼は率先して値切った。新鮮な魚が手に入らなかった日は、積み荷の乾燥魚をあけたり、アヒルを潰したりした。おかげで、船旅の間中、船員たちも十分な食事にありつくことができ、大いに喜ばれた。

写真10. 調理用のボートで一服するタカムラ。一服がてら、食事係の面々に食料が十分か確認を怠らない。

うるさい水先人

ボーッと空を眺めていると、モーター音の中に、変な大声が混ざっていることに気がつく。舟の舳先に立ち、行く手に倒木や砂州などの障害物がないか目を光らせ、船長に進行方向を伝える水先人(仏語でマテローという)の声である。特に、出発直後はグニャグニャに曲がりくねった狭い支流を進んでいくため、彼らの存在なしには全く先へ進むことができない。うっかり水没した倒木に船体をぶつけ、沈んでしまった舟も少なくないのだ。組長率いる船員チーム(通称・バ組)には、二人の水先人がいる。長身痩躯のダンディ、パパ・オティスと、小柄で若いモコロである(写真11)。彼らは、昼夜を問わず交代で舳先に立って水面を見つめ続ける。川幅の変化や進行方向など、基本的な情報はハンドサインで伝え、それで伝えきれないときには大声をあげる。

写真11.夕暮れ時の水先人。右がモコロ、左がパパ・オティス。

ところが、若い方のモコロは、四六時中、デカい声で指示を飛ばし続けるのである。それも、単に「右!」や「左!」というのではない。「右前方にとびきりの美人がいるぞ!俺たちは彼女と寝るんだ!」(つまり、右へ行け)、「左には妙齢のご婦人がいるじゃないか!結婚させてくれ!」(つまり、左へ行け)といった感じで、万事女性(と若干の下ネタ)に引っかけて言うのである。しかも、間違いなく指示が伝わるように、同じことを何度も繰り返してリズミカルに言うのだが、途中で興が乗るのか、指示に合わせて踊り出したりする。はじめは、僕もうるさいなぁと思っていたのだが、徐々に、次はどんな下ネタをいうのかが気になり始めた。そうなると、もう彼の虜で、いつの間にか、彼が何か言うたびに爆笑するようになってしまっていた。

下流に行くに従って川幅が広くなり、それほど頻繁に曲がらなくなるため、昼間は彼ら水先人の仕事があまりなくなってくる(写真12)。「水量が十分で、座礁の心配はない」という意味らしい「ルベ・ナ・ルベ!」というフレーズを連呼するだけである。必要以上に頻繁に言うので、アルフォンスは彼のことを「ルベ・ナ・ルベ」と呼び始め、皆それに倣った。その後も航程が進むにつれて、徐々に日中の水先人の仕事は少なくなり、それとは反対に欲求不満は高まったのか、モコロは愚痴をこぼす、というか、大声で叫ぶようになっていった。夜に備えて昼寝をしていた彼は、おもむろに起き上がって、男所帯で女が恋しい、と不満の声を叫び始める。ちょうど、全航程の半分にあたる、バサンクスに着くあたりのことであった。

「船員も独り身!村の連中も独り身!白人も独り身!独り身は辛い!もうこの際、エイズになったってかまうもんか!そのせいで、あと五日で命が終わるなら、そこまでだ!この辛さには耐えられない!俺はもう、バサンクスで降りる!パパ、どうか探さないで!」

バサンクスで女を捜すという堂々たる宣言に、これを聞いた一堂が大爆笑したことは言うまでもない。その後も、バンダカにいたるまで、モコロは笑いを提供し続けてくれた。

写真12.昼寝をする水先人。夜は交代で見張りをするため、昼は体力の温存に務める。

自分なりの地域住民との関わり方

船旅の間中、僕は空模様を気にしながらボーッとしていたわけであるが、ぼんやりと頭の中で考えていたことがある。それが、自分なりの地域住民との関わり方である。船旅では、有り余る時間の大半をおしゃべりに費やしたわけだが、特に、松浦さんとタカムラとは、今回のプロジェクトやワンバ地域の住民の今後について、じっくり腹を割って話をすることができたと思う。本連載の1回目にもあるように、タカムラと松浦さんの二人では、地域に対する貢献や支援に対して考え方の違いがある(第1回目はこちら)。

タカムラが重視するのは、研究者などの外部から来たアクターに頼らずとも、地域住民が自分たちだけで様々な事業を行うための下地となる仕組み作りや、そのために必要な考え方を伝えることである。しかも、単に一方向的に与える/伝えるのにとどまらず、彼は自ら率先して動く。橋の建設までやったというが、調査はどうしたんだとツッコミは脇に置いて、そんな大学院生は他には聞いたことがない(詳しくはこちら)。彼は、そうやって自分が率先して活動しつつ、いつか自分が来られなくなる日のことを常に意識して、それに向けて動いている。

他方、松浦さんは、研究者がワンバ地域に調査に来て、地域住民と関わり続けることを重視する。ワンバ地域は、世界でも類を見ないボノボの調査のメッカであり、調査が開始された1970年代から、90年代~00年代初頭の内戦の時期を除いて、研究者が継続的に入っており、研究チームとして、懐具合の許す範囲で住民への支援を行ってきた。内戦後は、研究者が増えてきたことと、地域の経済状況(と行政サービスそのもの)が落ち込んでしまったことから、病院や学校の建設、医薬品や学用品の援助から、学生への奨学金の支給、果ては道路整備などの公共事業まで支援を拡大してきている。調査のためには住民による協力が必要な研究者と、生活のために研究者を必要とする地域住民という、ある意味でお互いがお互いを必要としている状況なのである。このため、松浦さんの考える住民への支援とは、地域住民だけで回していくようにするのではなく、研究者の存在を前提としている。地域住民は、研究者を「上手く利用」して生活の向上を目指し、研究者は援助への積極的な関与を行いながら、それ自体も調査にしてしまうという、俗な言い方をすればWin-Winな状態を目指している。

では、僕の立場はどうか。僕の場合、ワンバ村には隣接しているが、ボノボ調査とは直接関係のないイヨンジ村で調査を行っている。この集落で調査を始めた木村さんと僕の他には、この村を拠点にして調査を行っている研究者はいない。これは、ボノボ調査の拠点となっているワンバ村ほど、手厚い支援を行うことができないことを意味する。もちろん、木村さんは(そして、近年では僕も)個人ができる範囲で、学校建設や学用品・医薬品の支援、奨学金の支給などを行ってきたが、ワンバ村で行われているほどの規模ではない。木村さんも引退が間近であり、このまま行けば、僕が調査とともに村への支援などを引き継ぐことになることは間違いなく、自分なりの見通しを持っておく必要があるのだ。

しかし、これがなかなかに悩ましい。まず、ワンバとは違って、研究者がひっきりなしに来て、常に誰かが村に入っているような状態ではないし、今後もそうなる見通しはない。木村さんも僕も、年に長くて2ヶ月、短いときは数週間しか村に滞在することができない。住民は、一年のうちの大半を、研究者の存在なしに生活するのであり、研究者の存在を前提とした松浦方式を単純には採用できない。一方、タカムラの理想とする住民による自立的な活動には大いに賛同するが、それは彼の調査地がキサンガニという一大経済拠点の近くにあり、コンゴ川の本流域に近いため交通の便が良く、外国籍企業も活動しているという、地理的・経済的な要因に支えられている部分が大きいと思う。ボンガンドの居住する地域は、上述のようにこのいずれもが欠けている。そもそも、このワイワイ・プロジェクトも、こうした現状を打開する方途を摸索するなかで立ち上がったのだ。

こういうわけで、自分なりの地域住民との付き合い方について、すぐに答えが出るものではなく、僕はボーッとしながらも、ああでもないこうでもないと考えを巡らせていたのである。おそらく、僕だけが頭を悩ませても答えが出る問題ではなく、地域住民とよく相談しながら、僕の短い滞在期間中に彼らの活動を後押しするような何かを、一緒に考えていく必要があるのだろう。この船旅を終えて、帰国の途につく頃には、自分なりの見通しが得られるのではないか。そんな希望を胸に、僕はバンダカの地を踏んだのである。

次回更新をお楽しみに!

第8回:波乱万丈の舟旅(松浦直毅)

2018年6月10日

第10回:重荷を分け持つ(高村伸吾)

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。