森と河をつなぐ―コンゴにおける水上輸送プロジェクトの挑戦
コンゴ民主共和国でフィールドワークを続けてきた私たち3人(松浦直毅、山口亮太、高村伸吾)は、困難な生活を乗り越えようと血のにじむ努力をしている森林地域の人々の姿を目の当たりにし、彼らの取り組みを後押しするためにひとつの企画を発案しました。それが水上輸送プロジェクトです。
2017年夏、地域の人々と私たちの協力のもとでプロジェクトが実施されました。その一部始終をご紹介いたします。
コンゴに降り立つ
コンゴに来るといつも胸が高鳴る。その理由のひとつは、政治的に不安定で治安が悪く、危険に巻き込まれるかもしれないという緊張感があるからである。エボラ出血熱をはじめとする感染症の報告も後を絶たない。外務省の海外安全情報では、国境付近の紛争地帯などでは「渡航中止勧告」や「退避勧告」が出ており、首都キンシャサをふくむそれ以外の地域も、レベル2の「不要不急の渡航は止めてください」とされている。私も実際にキンシャサの路上で強盗にあった経験もあれば、調査地にいるときに近隣地域でエボラ出血熱が発生して退避を余儀なくされたこともある。安全と健康のために十分な対策をとり、細心の注意を払って行動しなければならない、という意味で身が引き締まる場所であるのはまちがいない。
しかし、胸が高鳴る理由はそれだけではない。危険に対する緊張よりも心のずっと多くの部分を占めるのは、次はどんな発見があるのかという期待感である。2011年に初めて来てから2017年の今回の渡航が6回目で、滞在期間はそれぞれ2週間~1ヶ月くらいという短いものであったが、来るたびにいつも新たな出会いと刺激的な体験がある。私の研究にとってコンゴに来ることは、「不要不急」などでは決してなく、「急を要する不可欠なもの」なのである。私の専門は人類学で、ガボンの狩猟採集民の研究を長くおこなってきた。それにくわえて、博士の学位を取得後に、ガボンとコンゴで保全と開発に関わる実践的な研究にも着手し、現在はふたつの国で調査をおこなっている。コンゴにもだいぶなじんできて、研究内容も深まってきたところで、今回は、夏休みを目いっぱい使って2ヶ月強の期間を確保し、これまでにない挑戦を企てていた。
日本での仕事を片付けたあと、間髪入れずに荷造りをして出発し、2017年7月24日夜にキンシャサの空港に着く(写真1)。最近は、こんなふうに日常生活に忙殺されて、気がつくと出発の日を迎えており、心の準備が整わないままフワフワした気持ちで来てしまうことも多い。日本での生活で心も身体もなまりきって、感覚も半分眠ったような状態だ。何回来ても調査生活は大変で、正直に言ってしまうと、どこか気が進まないような心境で来てしまうこともある。しかし、キンシャサの空気に触れると、一気にモードが切り替わる。フィールドワーカーのスイッチが入って、半分眠っていた感覚が目を覚まして鋭敏になるという感じだろうか。空港には約束していたはずの調査チームの運転手が来ておらず、次から次へと怪しげなタクシードライバーが声をかけてくるが、それも現地調査に入る前のちょうどいいウォーミングアップだ。
写真1. キンシャサの町
そうしてしばらく押し問答しているところに運転手がやってくる。合流できて一安心だ。空港から市街へと向かう道中、両側に所せましとひしめく住宅、道路にまであふれ出てきそうな数々の露店、明るく能天気なメッセージが書かれた看板広告、交差点に無秩序に押し寄せて渦を巻く人と車、猥雑な街には似つかわしくない真新しくきらびやかなマンションやスーパーマーケットなどが、次々に目に飛び込んでくる。土埃なのか、光化学スモッグなのか、はたまた炭火焼の煙なのかわからないが、辺りにはもやが立ち込めているような気がする。1000万人を超えると推定される(雑然としすぎた町のため、正確な人口統計がない)人々の生のエネルギーが満ちあふれ、欲望がほとばしっている。
ピリピリと肌を刺すような町の喧騒を通りぬけて、調査地から出てきたばかりの先輩と落ち合い、預かってもらっていた書類を受け取りに知り合いの家を訪ねる。一杯ごちそうになってホテルに戻る。長旅の疲れでシャワーを浴びる元気はなく、ベッドに倒れ込むなりぐっすりと寝る。
キサンガニへ
7月25日早朝、ふたたび空港に行く。国内線の飛行機でキンシャサから東部の都市キサンガニに行き、そこからバイクで調査地であるワンバに向かうためである。キンシャサからワンバへの道のりは、長く時間がかかり、多くの困難があるという意味で、日本からコンゴまでの道のりよりもずっと遠い(図1)。深い森林の真っただ中にあるワンバは、近くまで行ける国内線の便はなく、車でもアクセスできない遠隔地である。キンシャサからキサンガニまでは飛行機で1時間強だが、そこからワンバまでは300km以上離れており、バイクで3泊4日の旅になる。調査チームでは、キンシャサでセスナ機をチャーターして、ワンバから約80kmのジョルという町まで行くことが多く、これだと4時間ほどで着く。大きなネックはその費用で、セスナ機を1回飛ばすのに1万ドル以上かかるため、一緒に乗って費用を折半できるメンバーがいない今回は、大幅な遠回りになるが、キサンガニまで国内線の飛行機で行き、キサンガニからバイクで陸路を移動することにしたのである。
11時30分にキサンガニに着くと、先に現地入りしていた大学院生の高村伸吾君(以下、いつもの呼び方でタカムラと呼ぶ)が空港まで迎えに来てくれていた。顔なじみのバイク運転手のアデラールも一緒に来てくれており、久しぶりの再会を喜ぶ。アデラールは、ジョル在住の腕も性格も良い運転手で、私の到着に合わせてキサンガニまで来てもらい、ワンバまで連れて行ってもらうことになっていた。
そう、バイクで3泊4日といっても、自分で運転するわけではないのである。それなら楽ではないかと思われるだろうか。しかし、わかってもらいたい。運転手とスーツケースやザックなどの荷物のあいだに挟まれて座り、デコボコ道を抜け、落ちかけた橋を渡り、延々と続く森の道を抜けて旅をするのは、まったく楽ではない。気力がみなぎるフィールドワーカーなどと勇ましいことを言ってしまったが、やっぱりバイクの長旅はひたすら憂うつだ。
キサンガニの生活
ともかくも腹ごしらえということで、昼食は、ごはん、牛肉のスープ、ポンドゥ(キャッサバの葉をついたもの)、煮豆というローカルレストランのフルコースを堪能する。そのあと、新しいバイクを1台調達する。アデラールのほかにもうひとり、トレゾールという運転手にも来てもらっており、2台の編成で向かうためである。トレゾールは、小柄だが腕っぷしが強く、コンゴ人にしてはめずらしく控えめで口数も多くない好青年である。バイクの腕もたしかだ。ところで、コンゴの地方都市では、とくに中国製のバイクの普及が目覚ましい。1000ドル未満なので庶民でも手に入れることができ、街中にはバイクタクシーがそこかしこに走っている。もちろん、劣悪な道路を通って地方部に向かうのにも最適である。
もうひとつ目覚ましい勢いで普及しているのが、携帯電話である。もはや生活必需品といってよく、若者からお年寄りまで持っていない人を探すのが難しいくらいで、2台とか3台を所有している人もすくなくないし、スマホの所有率もかなり高くなっている。端末は安価で手に入り、通信料はプリペイド方式なので、それぞれのフトコロ事情に合わせて使うことができる。くわえて、ユニテ(課金した通信料)を端末間でやりとりできるため、ユニテがなくなったら知り合いから送ってもらうなどすることで、経済水準が高くない人でも使いこなすことができる。最近では、お金のやりとりができる送金サービスもはじまっている。
もちろんフィールドワーカーにとっても、今の調査では携帯電話は不可欠である。私は、これまでは現地で買ったいわゆるガラケーを利用していたが、今回はSIMフリーのアイフォンを持ってきたので、SIMカードを買ってさっそく使ってみる。通話はもとより、インターネット通信もほとんどストレスなく利用できる。仕事から逃れるために同じ言い訳を使っている人には、ネタバレをして迷惑をかけることになるかもしれないが、「アフリカに行くのでしばらく連絡できません」というのは、地方都市にいるときならウソで、メールも逐一みられる。
つづいて、銀行に行ってドルをコンゴフランに換金する。ここ数年間は、1ドル=1000フラン弱で大きな変動はなかったが、2017年に入ったあたりからフランの価格が下落して、この時点では1ドル=1680フランになっていた。ドルを替えたい側からするとかなりお得になるわけだが、もちろんことはそれほど単純ではなく、庶民の生活に大きく響き、経済不安が高まれば治安の悪化も懸念される。タカムラがつきあっている商人たちにとっては、とくに死活問題だそうだ。
宿泊先はプロキュールという教会施設で、1泊20ドルである。ベッドと机だけの部屋のほかに、トーストにオムレツやコーヒーがついたおいしい朝食、共用の暗くて汚いトイレと水浴び場がついている。ベルギー植民地時代からある建物で、荘厳で趣がある(写真2)。ずっしり響く大きな鐘の音が心地良い。しかし、ほとんど資金がないからだろうが、20世紀後半以降はほとんど手入れも改修もされていないようである。まるで数十年間ときが止まったままのような遺跡にもみえる建物は、コンゴのそこかしこで見かける。もちろんそれは、コンゴ戦争によって地方の交通も経済も壊滅的な打撃を受けたからである。かつて世界屈指の一次産品輸出国として経済発展していたコンゴが、もしも戦争を経験することなくそのまま発展していたらと思えてならない。
キサンガニ大学での資料収集や、関係者からの情報収集などの用事を済ませ、旅の準備もだいたい終えて時間ができたので、7月26日にキサンガニ観光に出かける。シュット・ワゲーニア(ワゲーニアの急流)という場所が、ちょっとした観光地になっている。急流の真ん中に木の骨組みを建てて大きなかごをしかけるという、伝統的な漁法が知られているところである(写真3)。1年前にも来て、そのときは岸から眺めただけだったが、タカムラの友達のオギィ氏にアレンジしてもらい、今回は舟で中洲まで行ってみる。急流がぐっと近くに見えて迫力があり、水しぶきがミストシャワーのようで涼しく、すこぶる気持ちがいい。気持ちが良くなりすぎたのか、気がつくとタカムラは、オギィたちと一緒にパンツ1枚で川に飛び込んでいた(写真4 …を載せようと思ったが、不適切な内容を含む可能性がある画像なので自粛)。なお、パンツ1枚で川に飛び込むタカムラの姿は、これまた1か月半後に目の当たりにすることになる。
写真3. シュット・ワゲーニア
いざ出発
7月27日朝、いよいよキサンガニを出発する。アデラールとマツウラ、トレゾールとタカムラという、ちょっと語呂がいい組み合わせでバイクに乗る。タカムラは、ここから100km強離れた対岸のイサンギという町を拠点に調査をしているので、そこまで同行してもらうことになっていて、そのあとは、自分とドライバー2人・バイク2台でワンバに向かう。バイクが2台あるので荷物を載せるのも楽だろうと思っていたが、アデラールたちは、せっかくキサンガニまで来たからということだろう、テレビだのスピーカーだの、たくさんの物を買い込んで荷台に積んでいるので、結局たくさんの荷物と運転手に挟まれての窮屈な移動である(写真4)。
写真5. コンゴ川を渡ってイサンギへ
そのタカムラであるが、率直に言って、コンゴで活動するにあたっては、このうえなく頼りになる人物である。今の大学院に入学する前にキンシャサでの学校の建設と日本語コース開設のプロジェクトに携わり、キンシャサで合わせて1年以上過ごしたほか、作家の田中真知さんと一緒にコンゴ川を旅した経験もある(田中真知著『たまたまザイール、またコンゴ』、偕成社、2015年。タカムラ本人による紹介はコチラ)。たんにリンガラ語が堪能で経験が豊富というだけではない。コンゴへのひとかたならぬ愛情をもっており、ちょっと暑苦しい性格ではあるが、誰からも愛される魅力的なキャラクターで、今回のプロジェクトにとっても絶対に欠かせないメンバーだ。
ただし一方で、地域に対する支援や貢献という観点では、あくまで研究者であることを貫きたい私とタカムラとは考え方のちがいもある。彼にとって地域への支援とは、住民の自立をうながし、自分がいなくても彼らだけでできるようになることであるという。それに対して私は、それは自己満足だといわれるかもしれないが、研究を発展させ、研究のために通い続けることこそが、研究者である自分にできる地域への貢献だと信じている。人々が自立して自分が要らなくなることを目標にするのではなく、お互いがお互いを必要としながらずっと関わり続け、それぞれの目標を達成しようとすることで、結果的に地域住民の生活向上につながれば良いのではないかと考える。いまここでは、そのどちらが正しいとか、支援がどうあるべきかを論じるつもりはないが、今回のプロジェクトは、そうした研究者と地域住民の関わり方や、地域開発のあり方を問い直すための挑戦でもある。タカムラと二人、川岸でそうしたことを長々と語り合い、1か月半後のワンバでの無事の再会を誓い合う。
長い長いバイクの旅
7月28日、タカムラに別れを告げてイサンギを発つ。すでに少し身体に疲れと痛みがあるが、ひとまず心身ともに調子は良好である。ただ、昼ごろにモジテという町に近づいてきたあたりからお尻と脚のつけ根の痛みが増してくる。モジテで休憩することにしていたので、冷えたコーラを想像しながらモジテに着くのを今か今かと待ち、モジテが見えてきてようやく休憩だ、コーラだと思いきや、前を行くトレゾールはそのまま通過してしまう。これはしまった、アデラールとトレゾールの間で計画が共有されていなかったのである。そのまましばらく進んでしまったので、もうモジテまで引き返すわけにもいかない。しかし、張りつめていた気持ちを一度緩めてしまったこともあり、このまま走り続けるのは無理ということで、道沿いの民家で軒先を借りて休む。そこで出してもらった水は、冷たいコーラほどではないが、カラカラの喉にしみるおいしさである。お尻のまわりがヒリヒリして、腰や背中にも疲労が蓄積しているが、身体を伸ばしたりほぐしたりしていると、すこしやわらぐ。
再出発して、14時すぎにロボロという大きな町に着く。給油と簡単なバイクの整備をおこない、遅めの昼食をとるが、とにかく食事がうまい。15時20分にロボロを再出発するが、町を出たすぐ先が難所である。橋が何本かかかっているのだが、そのすべてが壊れかけていたりしていて、すんなり渡ることができない。そのため、いちいちバイクをおりて押して渡らなければならないが、橋はグラグラとして不安定で、頼むから落ちないでくれと冷や冷やしながら見守る(写真6)。
写真6. 橋を渡る
そうしてなんとか難所を突破してさらに進むが、このあたりでは疲労がピークに達して、最もつらい時間帯である。デコボコ道でバウンドするたびにお尻に痛みがはしる。体中に力が入っているせいで、バイクに乗るのに関係なさそうな肩やひざも痛い。痛みに耐えられなくなってきたところで止まって休むと少し回復するが、再び走り出すと回復した分をすぐに使い切ってしまう感じで、また身体が痛み出す。奥歯をくいしばり、痛みを忘れるためにがんばって他のことを考えようとするが、結局、連想はお尻の痛さに戻ってきて、やっぱりつらい。今日の夕食は何だろう→夕食は次の町だ→あと20kmくらいだ→そんなにあるのか、お尻が痛い。つぎの論文はどんなテーマにしよう→住民組織の活動を調べよう→調査地まで行かないと→調査地までまだまだ遠い、お尻が痛い。という具合である。
そうして耐え忍びに耐え忍んで、18時半にコールという小さな町に着く。今日はここで1泊である。朝から約8時間で150kmほど走ったことになるか。長旅で疲れと汚れにまみれたあとの水浴びは最高に気持ち良く、クワンガ、朝イサンギで買ったパン、サーディン缶という質素な食事もごちそうである。お世辞にもきれいとはいえないし、無駄に気密性が高くて蒸し暑い部屋も、快適とはいいがたいベッドも、とにかく休めるだけでありがたい。
7月29日、出発する前からすでに体が重く、すこし痛みも残っているが、コーヒーと揚げバナナの朝食に元気をもらってコールを離れる。ここから先はしばらく大きな町がなく、長々とつづく森の中の道をひたすら進む。すこしばかりバイクに乗るのに慣れてきたのか、痛みが増すこともなく快適である。森の道は比較的平らで、空気はひんやりしている。両側から竹がせまってきていて、草木や果実のさまざまな匂いがときおり鼻をかすめる。おびただしい数のチョウが群がっている水たまりをバイクで突き抜けると、花吹雪のようにチョウが舞い上がって美しい。舞い上がった拍子に、メガネと目のあいだに入り込んできたりもするが。途中、いくつか村を通過する。家の屋根から立ち上る煙、のんびりと寝そべっているヤギ、せわしなく動くニワトリ、整然と並んだコーヒーの木、ひらかれたばかりの畑などを見ていると、こんなところにも素朴だが力強い人々の営みがあるという当たり前のことにあらためて感嘆する。
昼すぎにロポリ川に着く。川の周辺は、道が浸水しており、バイクで通過するとひざから下がびしょ濡れになる(写真7)。この川はふたつの州の境界になっており、川を越えたらワンバがあるチュアパ州に入る。州の境界であるとともに、この川を境に時間が変わる。コンゴにはふたつの時間帯があって、東側は日本からマイナス7時間、西側はマイナス8時間である。13時から12時に時計を戻すが、1時間得したような、しかし旅の苦しい時間を1時間延長されて損したような複雑な気分である。通行の手続きと渡し舟を待つのとで2時間ほど足止めされたが、無事に川を渡る。
写真7. 浸水した道
チュアパ州に入って旅も終盤にさしかかる。身体の痛みが増してきたところで本日最後の休憩をとり、再出発してまたしばらく走る。同じような景色が続いているのと、心を無にしていたのとで、しばらく着いたことにも気づいていなかったが、16時20分にようやくジョルに到着する。見慣れた道や建物が視界に入ってきて安堵し、アデラールの家に部屋を用意してもらってほっと一息つく。水浴びがこのうえなく気持ちよく、ごはんと魚の夕食がまた格別である。苦しいこともたくさんあったが、振り返ってみればまあこんなものかといったところで、いい経験にもなったのではないかなどと、背中、腰、脚がすべて痛いせいでぎこちない歩き方になりながら、心の中で余裕の発言をしてみる。
広々としたベッドも快適で、ここまでのもてなしをしてくれて本当にありがたい。本当にありがたいのだが、もてなされ過ぎて困ることもある。というのも、ゴキブリを退治するために殺虫剤をこれでもかと撒いてくれたようなのだが、ベッドで寝ていたところ、殺虫剤で弱ったゴキブリが壁や天井からポタポタと落ちてくるのである。足の方から体の方へと迫ってくるヤツ、お腹の上をウロチョロするヤツ、きわめつけは顔に直接ダイブしてくるヤツもいる。シーツをかぶって防御するが、そうすると蒸し暑く息苦しくて耐えがたい。たまらずシーツをとると、今度は次々に黒い落下物。もはや悪夢としかいいようがない。ダブルベッドサイズの広々としたベッドなのに、転げ落ちそうになりながら端っこ20cmくらいのところで体を丸める。もちろん、別の場所に避難するとか、持っていたテントを立てるとかいうことも考えたのが、バイクの長旅による疲れというのはすごいもので、こんな状況でも身体を動かす気にならないのである。結局、そのままぐっすり寝てしまい、気がついたら朝を迎えていた。私の体の上をどのくらいのヤツらが通り過ぎたのかわからないが、床には20はゆうに越える数の黒光りする物体が落ちていた(写真7…も不適切なので自粛)。
ワンバへ
7月30日、私の到着を知ってさっそく朝から次々に人が訪ねてくる。再会を楽しみにしていた知人たちだけでなく、何だかよくわからない役人や住民組織の関係者もいる。数年にわたって調査や支援活動をしていると、人々からも次第に認知されていくようで、話をしにきてくれること自体は嫌ではない。むしろ、そうやって巻き込まれ、絡めとられながらいろいろな人たちと関係を築き、長く調査を続けていきたいとも思う。しかし、それにしても、ちょっとぶしつけな輩が多い。はじめましてのあとの二言目には、協力の要請というか、もっとストレートな支援要求がはじまる。しかも、数十ドル、数百ドルくらいの事業なら話し合いの余地があるが、いきなり5千ドルとか1万ドルの計画を持ってくるのである。こちらの事情にも能力にも目的にもお構いなしで、とりあえず盛れるだけ盛って要求してみる、というのが、彼らのコミュニケーションのあり方といえるだろうか。ちょっと相談に乗って欲しいのだけど、というような低姿勢ではなく、なんならちょっと偉そうな態度であるのも特徴である。心のなかではゴキブリを投げつけながら、とりあえず丁重に追い返す。
昼食を済ませて、ようやく午後にジョルを発つ。ここまで来ればゴール目前といいたいところだが、昨夜激しい雨が降ったせいで道が川のようになっているところがあり、デコボコやアップダウンも多くて苦労しながら進む。あとすこしだと思ってしまうと、そこからの道のりがやたらに長く感じられる。ジョルからは3時間、キサンガニからでいえば丸3日間の旅を終えて、17時前にやっとやっとワンバに着く。
ワンバの調査基地(写真8)には、ボノボ研究者の先生や大学院生が滞在しており、無事の再会を喜ぶ。村の人たちもたくさん集まってきてくれる。長い旅の末にたどりついたので、約1年ぶりの再会に感慨もひとしおである。この1年のあいだのできごとや、今回の一大計画のことは、明日からゆっくり話すことにして、とりあえず身体を休める。ヤギ肉、魚、野菜、ごはんという豪華な食事と、キンシャサのホテル以来の熱いお湯浴びを堪能し、ぐっすりと眠った。さあ、これからいよいよ1か月半の調査生活、そして「ワイワイプロジェクト」のはじまりである。
写真8. ワンバの調査基地