第10回:重荷を分け持つ(高村伸吾)

森と河をつなぐ―コンゴにおける水上輸送プロジェクトの挑戦

コンゴ民主共和国でフィールドワークを続けてきた私たち3人(松浦直毅、山口亮太、高村伸吾)は、困難な生活を乗り越えようと血のにじむ努力をしている森林地域の人々の姿を目の当たりにし、彼らの取り組みを後押しするためにひとつの企画を発案しました。それが水上輸送プロジェクトです。

2017年夏、地域の人々と私たちの協力のもとでプロジェクトが実施されました。その一部始終をご紹介いたします。

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リーダーの仕事

リンゴンジを出港してからの船旅は順調だった。船員グループの組長・デュドネの仕事には常に規律があり、当初不安を感じていた僕もバンダカ行きへの希望が湧いてくるようになった(写真1)。デュドネは、一つ一つの仕事を決しておざなりにせず、しっかりと手本を示しながら船員に指示を飛ばす。リンゴンジの港を出航する際には、プラスティック容器から滴ったヤシ油を指し、「これは血の一滴なのだから、こぼれないように慎重に扱わなければならない」と若手の船員たちに強調した。こうした指示に加えて、彼は、重い容器を自ら運んでヤシ油の積み替え作業を行ったり、スコップを持って砂利や粘土を整形して調理用の七輪を丸木舟に設置したりと、常に実践を通じて船員たちに仕事のあり方を指導する。「仕事は適切になされねばならない」というのが彼の口癖で、船員たちのみで開かれる夜のミーティングでは、愛嬌があるもののしっかりとした口調で、その日にあった出来事を総括しながらも、この言葉を繰り返していた。

写真1. 進路を示すデュド

人々が寝静まったあと、船や野営地の一角で語られるデュドネの言葉に耳を傾けていると、コンゴの知恵ある首長が人々をどのように導いていたのかおぼろげながら見えてくるようで興味深かった。彼は、決して口調を荒げることなく、相手がその言葉を自分のものとして噛み締められるように、ゆっくりと一つずつ求められる仕事を示していく。日本人を交えた船旅に気が緩みそうな船員を見つけるとそっと呼びとめ、「客人を無事に送り届けることが一番大切なことだ。今は仕事に集中しなさい」と言い含める。怒気は孕んでいないが、そう諭すデュドネには、普段の優しいおじいちゃんの表情のなかに、どこかリーダーの威厳を感じさせるものがあった。刺々しい表現はないものの、彼の言葉には経験に裏打ちされた重みがあり、誰もが従わねばならないと思わせる力があった。数日間の船旅を共有するうち、僕は彼の指導者としての立ち居振る舞いに強い感銘を受けるようになった。決して急がず、しかし、仕事には十全に備えるというその姿勢には、これまでコンゴ川を大型船で幾度も往復してきた彼の経験がうかがわれて心強かった。

本来、河の仕事には、大きなリスクがつきまとう。紛争後の社会状況下で、唯一商品の長距離大量輸送を可能にする河川流通は、重要性を増しているものの、それに比例して近年事故も頻発している。河川を往来する船舶は度々、座礁や沈没などのアクシデントに見舞われており、特にコンゴ川のような大河を横断する際に事故が発生した場合、パニックに陥った乗客たちの多くは岸辺までたどり着けずに、数十から数百の人命がいっぺんに失われるという。長距離交易に従事する商人たちは、僕らには決して想像できないような重圧にさらされているのである。僕の調査地であるイサンギ周辺でも、バリニエと呼ばれる木造船による旅客輸送業が今日大きな発展を遂げている一方で、大きな事故も起こっており、夜間航行中の事故から責任者が訴追を受け、事故後10年近くがたった現在でも遺族に対する賠償問題がくすぶり続けるなど、地域社会に大きな傷跡を残している。実際事故に直面した商人は、「人々は河で死に続ける。それでも生きるために、バリニエに頼らなければならない」と語った(写真2)。河という世界は、人々に富への可能性を開くけれど、時にその命すら飲みこんでしまう恐ろしい場所なのだ。

写真2. バンダカを目指すバリニエ船

河川航行に伴うリスクに加えて、複数の外国人をはるか800km先のバンダカへと送り届けるという今回の旅は、デュドネにとって普段以上に気をもむ仕事だっただろう。国家経済が破綻したコンゴの地方役人からすれば、往来する流通業者からの賄賂が重要な生計の基盤であるため、各地に設けられた関所では長時間の引き止めや賄賂をめぐる交渉を余儀無くされる。流通業者は、これらの障害をそれまで培った人間関係や交渉術によってかいくぐっていくが、一団に外国人が同行するとなると事情が変わってくる。実際に停泊した港では、外国人の来訪を聞きつけた入国管理局(DGM)の役人がやって来る。交渉に次ぐ交渉に辟易させられつつも、最後は談笑できる落とし所を見極めながらやり取りを交わさざるをえない。

外国人を守らなければならないという厳しい条件のもとでも、デュドネは、DGMとの交渉の要所要所で顔を出し、決して会話の主導権を渡すことはなかった。自分たちの利益を最優先しながら老獪に交渉を進めていく彼は、とても頼もしかったが、同時に彼のしたたかさに対しては危惧もあった。いっときの気の緩みが致命傷になる河川世界を生き抜く流通業者は、常に頭のなかでリスクを計算し、抜け目なく利得を積み上げるチャンスを模索している。運航に伴うリスクを勘案するだけでなく、人間関係においても彼らはこうした計算を怠ることなく相手の表情から思考を読み取り、詐術や圧力を交渉の端々に紛れ込ませながら自分の望む結果をもぎ取っていく。「真実は人を傷つける」という河川交易民ロケレの格言に見られるように、商人にとって、詐術は自身の生存を担保する上で欠かすことのできない美徳の一つでもあり、相手の話をその通りに受け取っているといつの間にか主導権を握られてしまう。それゆえ、商人としてキャリアを積み上げてきたデュドネの仕事ぶりには感服の念を覚えつつも、心のどこかで僕は警戒心を緩めることはできなかった。

実際に、日常会話の端々には、僕らに対する様々なプレッシャーが挟み込まれる。特に運航に必要な燃料費に彼は度々言及し、バンダカ到着の折にはかなりの金額を請求されるであろうことが容易に想像された。船員グループの運営や航行に伴うリスクから鑑みて、可能な限り利益を最大化するという彼の考えにはうなずける点が多いものの、外国人を相手に青天井になりがちな予算要求のプレッシャーを受け続けるのは、あまり心地のよいものではなかった。両者の立ち位置は可能な限り水平であるのが望ましいと考える僕にとって、情報の面で圧倒的に優位なデュドネのプレッシャーをいかに切り返すかという対応策にも神経をとがらせなければならなかった。

亀裂の予感

地域の人々と協力するという目標を掲げてはいるものの、僕らはほとんど初対面のメンバーばかりがひしめく即席チームであって、デュドネにはデュドネの背景や論理があり(もちろんこれは自分の勝手な想像だが)、船旅のメンバー全員で共有できる基盤を見出すことは難しい。紛争からの復興のためには、帰属する集団を超えた協力関係が必要であるが、みなに共有されうるビジョンを形作るのは恐ろしく困難で、つまるところ、その場その場の雰囲気や空気感に神経を研ぎすませながらトラブルシューティングに奔走する、というのがプロジェクト運営の実態である。出自や背景が異なるからこそ、人々の間には小さな行き違いや不和の元がいくらでもあり、そこかしこに摩擦や誤解をもたらす要素が転がっている。

小さな不和の種を目の前にしたとき、相手が何を辛いと感じているのかよく耳を傾けなければならない、と教えてくれたのは、リレコという村の伐採会社で働くパパ・オッギーだった。彼は、2016年に地域住民とともにおこなった橋建設プロジェクトで商人や村の人々との交渉や詐術に困憊していた僕に「この国でやっていくためには共感を忘れてはいけないよ」とつぶやいた。すべての問題を解決することはできないが、相手が何を辛いと感じているのか理解しようと努めることなら誰にでもできる。とりわけコンゴの人々は、相手の感情をあたかも自分のものであるかのように感じ取る力を持っているようにみえる。そこに思いをはせることができれば、仕事は進んでいく。彼の贈ってくれたこの教訓は、どこかで僕の振る舞いに影響を及ぼしていたのかもしれない。不思議と、船のメンバーから届けられる声が多かった。

こうした声の中でも、特に大きな懸念を感じたのは、商品管理を担っていたアルフォンスの「船旅のメンバーは三つのグループに分断されている」という言葉だった。リンゴンジを出発して数日、勢いで旅程をこなしてきたものの、気づかぬところで不満が蓄積していたのだろう。よくよく話を聞いてみると、デュドネたち船員組や僕ら研究者のグループに比較して村のメンバーの食料の配給が少ないことや、DGMとの交渉に彼らが同席できないことに対して苛立ちを感じていると打ち明けてくれた。確かに、僕らの食事は豪勢だったが、全員に十分な食事が行き渡っていたかといわれると不安がよぎる。

イサンギを出てから急遽船旅に加わった僕は、旅での合意事項について十分理解していなかったので、そもそも食事の配給が誰の管轄であるかもわからず、船員一人一人の食事についてまで気をまわす余裕がなかったのだ。他の船員にも聞き取りをしてみると、どうやら満足な食事をとっていたのは、僕ら研究者だけで、残る船員に十分な食事は行き渡っていなかったというのが真相のようだ。こうした見落としは、商人たちの仕事のあり方からいって憂慮すべき事態である。河川流通の仕事では、食事の面でメンバーの士気を損なってはならないという不文律があり、市場を行き交う商人たちは、たとえ支払える賃金は十分でなくとも、雇った従業員が決して飢えることがないよう細心の注意を払っていた。食事におけるそうした配慮こそが、互いに真剣に向き合う上での最低限のルールなのだろう。仕事の基本を見落としていたことを反省しつつ、早急に対応策について考えなければならない。

とはいえ、研究者グループがどこまで費用を負担するのかという命題は、一種の見極めが求められる難しい問題である。いわれるままにいたずらに予算を投入すれば、グループ間のバランスを崩す要因にもなりうる。すでに船のチャーターから農村部での仕入れに至るまで現地の経済水準からは大きく逸脱した費用を投入してきており、これ以上金銭の授受が偏るのは、デュドネたち船員組や村の人々との間で持続的な関係を築く上で、有益なものであるとは思えなかった。一度支援をはじめると多くの期待が集まり、それ以上の支援を求められるのが通例で、相手の文化や論理を尊重することの重要性については首肯しつつも、どこかで一線を引かなければ収集がつかなくなってしまう。「豊かなものから貧しいものへ」という平準化の圧力が、現地社会において極めて重要な価値観であることは承服しつつも、同時に、僕らの考えや論理について理解してもらえるよう努めなければ関係性は始まらない。つまるところ僕らは、農村住民と商人、そして研究者という3つの異なる集団からなる即席チームなのだから、互いが責任を持って担える役割や責任がなんであるのかをその都度確定していかなければ、共によって立つ基盤を打ち立てることはできない。加えて、外部者の資金のみに依存して山積する課題を解決するという手法に偏重するのは、彼ら自身が試行錯誤する機会を奪うことにもつながる。コミュニケーションを取りつつ皆がプロジェクトに参加できる幅を広げていかなければ、いみじくも松浦さんが指摘しているように「大規模だが一過性に終わって後に何も残らない援助」に陥る危険性すらあるのである(エッセイ「未来の実業家たち」参照)。

それぞれのグループや人々の力関係に考えを巡らせながらも、時間は刻々と流れていく。結局、僕が選んだのは、相手に自分たちの状況の理解を求めながらも、可能な限り相手に配慮するという折衷案だった。アルフォンスを始めとする村のメンバーには、「イエスのように魚を無限に増やすことはできない」と、彼らに伝わるよう聖書の故事を引きつつ、プロジェクトの経緯や研究者側の限界について噛み砕いて説明し、そのうえで、彼らにも食料調達などの仕事に取り組んでもらうことにした(写真3)。市場や河川での調達では、率先して値切り交渉を行い、そのたびに「予算を守らなければならない」と繰り返した。これらの対処に一体どれほどの意味があったのかはわからないけれど、少なくともなんらかのアクションを取ることが必要であるとその時の僕には感じられた。

写真3. 食料の確保

重荷を分け持つ

その後も、可能な限りメンバーとのコミュニケーションを図るよう努めたものの、言葉だけではなかなか文化の壁は越えられない。どんなに自分が意図していても、物事は思ったようには進んでくれなかった。そうした僕らの関係に大きな変化をもたらしたのは、バサンクスの町を出たあとに生じたアクシデントであった。それは、9月14日の20時10分のことだった。予定通りに進んでいた船が砂州に乗り上げ、全く身動きが取れなくなってしまったのである。

船が砂州に乗り上げると、すぐさまデュドネの指示が飛び、パパ・フレディやオティス、モコロを始めとする船頭の面々が水面におりて、船体を押し出そうと試みる(写真4)。それまでの座礁では、船頭が押し、操縦士のパパ・デサがエンジンを吹かせば脱出できたのだが、このときは本格的にはまり込んでしまい、船は全く動かなかった。10分、20分と時間が経過しても、けたたましいエンジン音が響くばかりだ。さすがに埒が明かないと、デュドネは普段は滅多に出さない大きな声で「男たちは船から降りろ」と号令をかける。船に残っていた面々が一人また一人と水面に飛び込み、船体を押し出そうと力を合わせる。それでもやはり、動きそうにない。その段になって初めて僕は、デュドネの言葉を反芻する。「俺も男だったな」そう思った僕は、気づくと船の縁をつたって船尾へと向かっていた。パパ・デサは、僕の様子を察して「危ないから降りるなよ」と念を押したのだが、いてもたってもいられず水面に飛び込んだ。

写真4. 水面におりて船を押すフレディとオティス

船体後部では、既に6人ほどがひとかたまりになって船を押していた。水深は80cmほどだっただろうか、水がかなり冷たかったのを今でも覚えている。川底におりてみると、船体の大部分が砂州につかまっていることがよくわかった。デュドネは、トーチで四方を照らして砂州の状態を確認しながら脱出ルートを探し、僕らは、船底に体をねじ込んで引っかかっている砂を手作業でかきだす。だが、やはり動かない。モコロが潜ってどこが引っかかっているのかを再度確認する。みなで方向を見定め、船を押す。砂をかき出したのが奏功したのか、すっと船体が動き始めた。力一杯船体を押すと突然、水深が深くなり全身がずぶ濡れになった。水浸しになりながらもようやく脱出できるかという淡い期待は、程なく落胆へと変わる。船は、わずかに動いたもののその後、別の砂州につかまりピクリとも動かなくなってしまったのだ。

この水域は、あちこちに砂州が隆起していて、一つの砂州を超えても、たちまち袋小路にはまり込んでしまう。指示を飛ばすデュドネやデサもどう脱出させるべきか見当がつかず、次第に全体の意志統一すら図れなくなった。態勢を立て直そうと操縦士のデサも水面に飛び込み、気がつけば船に残っていた面々もみな川底に降りて声を張り上げている。アルフォンスは、周囲に群生した草をなぎ払って脱出ルートを探し、デュドネとデサはそれに基づいて進路を模索する。およそ一時間、みなで周囲の砂州と格闘しながら、どうにかルートを選びだす。あとは押すだけだ。船に積まれた木材を持ち寄り、四人ほどが梃子をつかって船体を持ち上げ、かろうじて砂州から自由になった船体を押し出そうと力を合わせる。しかし、タイミングが合わず、船体はまるで根を生やしているかのように微動だにしない。

ここで、村人のメンバーである若い方のデュドネが、ボンガンドの言葉でみなに掛け声をかけた。唇をふるわせて「クルルルルル」という合図の音を響かせると、続いて「バカタミャ(腕に力を込めろ)」と船を押す面々に大声で呼びかける。即座に「ミャ!」とみなが呼応して、若いデュドネの掛け声に調子を合わせた。「マコロソー(足を踏ん張れ)」「ソー!」、「シンバ(掴め)」「シンバ!」、「カンガ(掴め)」「カンガ!」、「トケンデ(行くぞ)」「トケンデ!」、「リボソ(前へ)」「リボソ!」と、デュドネの呼びかけと船員たちの声がまるで一つの音楽を奏でているかのように重なり、「前へ」の号令を合図に、皆が力を一点に集中する。ようやく船が動いた。一度の掛け声ごとにわずか数十センチほどではあったが、10トンを優に超えようかという船体が、少しずつ前に進み始める。そこからさらに数十分かけて僕らは船を押し続けた。デュドネの掛け声に合わせて、一歩また一歩と一つの方向に向けて船体を押し出していく。一人一人が声を重ね、力を合わせる。

ようやく砂州から脱出できたのは、22時40分だった。二時間以上、水のなかで船を押し続けたことになる。いつのまにか操縦席に戻っていたデサがモーターに点火し、船はゆっくりと進み始めた。僕らは、歓声をあげながら船内へと戻る。船上から指示を飛ばしていた組長デュドネと不意に目があった。彼は、小さな声で「おめでとう(Félicitation)」とつぶやいた。船を脱出させた達成感とともに、僕はこのときようやくみんなと繋がれたような気がした。そしてそれは、僕が初めてコンゴ川を下ったときに感じた感覚と重なるものだった。体は冷え切っていたが、大声をあげて互いを鼓舞しあい、船を脱出させる、という一人では決して背負うことのできない重荷をみなで分け持つ。砂州につかまるという出来事は想定外だったが、同じ苦難を共有するからこそ、互いへの理解が得られることもある。それぞれできることや抱えられる負担は限られているが、一人一人に出来ることは決して小さなものではない。二時間以上、暗闇のなか船を押し続けるという経験を共にすることによって、プロジェクトに参加する一人一人が互いに重荷を担い合うという意識が生まれたような気がした。

もちろん、こうした意識をどこまで持続できるかは、今後も続く関係性の中でいかに実質的な対話を積み重ねられるかにかかっている。そして、それこそが、地域の未来を開く上で不可欠であり、同時に極めて困難な課題であることはいうまでもない。一つの障害を乗り越えるたびに、予期せぬアクシデントが生じるのがコンゴの日常で、まさに砂州を脱出した晩にも、僕らの船はバリニエとの衝突事故にあったし、その翌日には、コンゴ川との合流地点を警戒する軍関係者とのシビアな交渉に巻き込まれた。しかし、そうした障害を超えてようやくバンダカの港が間近に迫ってくると、正しい道を歩いているという実感も湧いてくるようになった。

前回のバンダカ来訪からはや五年の月日が経ち、僕も随分この国の現実と向き合ってきた。その間、多くの友人たちに助けられ、わかるようになったこともあれば、未だわからないことも数多い。ただ、この過程を通じて少なくとも明らかなのは、コンゴ河をめぐる旅路は、その都度、「全身全霊をかけて精一杯取り組もう」という自分の意志を呼び覚ましてくれるということだ。目的地を間近に臨み、振り返ると操縦席のデュドネとデサが親指を立てて僕の視線にこたえてくれる (写真5)。おそらくこれからも様々なトラブルや誤解があるのだろう。それでも彼らのこの表情と歩むことができれば、きっと大丈夫だ。バンダカの風を感じながら、僕の脳裏にはそんな楽観がふっと浮かんできた。

写真5.バンダカを臨む

次回更新をお楽しみに!

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。