『あふりこ―フィクションの重奏/遍在するアフリカ』川瀬慈(編)

紹介:池邉 智基

 フィールドワークをする研究者は、調査地に赴いて、見たり聞いたりしたことを文章にして発表する。基本的に、研究者が調査地のことを文章にするとき、フィクションを書こうとすることはないだろう。本ホームページに寄せられたエッセイを見ても、執筆者はそれぞれの経験をありのままに書いている。そのありのままを目指す理由のひとつとして、調査地で見聞きした内容を文章にするときに、事実や解釈を恣意的に「作り替え」てしまわないように努力しているからであろう。もちろん、普段書いている文章の中に、意図せずして「作り替え」てしまう箇所があるかもしれない。それでも、つい普通で、一般的と思ってしまいがちな「私たち」が、アフリカの人びとを自分たちと異なる「彼ら」として誇張してしまわないように、どのように捉えてどのように描くのか、たくさんの注意を払っている。
本書は、アフリカで調査している人類学者による、フィクションという形式の物語りである。一見すると、上述の議論とは真逆の方向性に思えるかもしれない。しかし、本書で登場するフィクション=物語りは、アフリカの人びとの解釈や価値観を「作り替え」たりはしていない。フィクションという形式をとって記述することは、事実や人びとの解釈を捻じ曲げることなく、いくつもの「リアリティ」を描き出す試みなのかもしれない。
それぞれの作品について説明しよう。エチオピアの歌い手ラワジを描いた「歌に震えて」では、シュカッチという皮膚がはがれる病をもたらす悪魔的存在を除けるため歌い続けるラワジの日常的な実践を、ある俯瞰的な視点から淡々と捉えていく。またベナンの妖術師について扱った「太陽を喰う/月を喰う」は、ベナンに滞在する「白人」の「私」と日食というイベントが、「私」の過去の記憶と結びつき、物語りが展開していく。後半部の「月を喰う」ではベナンの妖術師の視点である「私」の視点で、「白人」の近くで生活する日常と、妖術師の集会という非日常の二つの空間を描写していく。「あふりか!わんだふる!」では、神奈川県に住む「ぼく」と、ワンダフル(仮名)という国の王様である「私」との不思議な出会いが、日常的なことばや詩的な表現、少し堅苦しい言葉遣いなどで描かれていき、それらが対位法のように結びつき絡み合う。「バッファロー・ソルジャー・ラプソディー」では、カメルーンのとある場所に植えられた“プランテンのキ”が出す音が物語りの導入となる。日本に出稼ぎにいったカメルーン人、カメルーンにいるカメルーン人、その友人の「どうしようもないニッポン人」とのグループチャットが気軽に土地を越えながら、感情をつなぎ、音を創り出していく。「クレチェウの故郷」では、カーボベルデのサンティアゴ島を舞台に、黒人奴隷として連れてこられた「僕」と、流刑にされた白人の「俺」、ふたりの感情の発露が歌に導かれる。そして時代も地域も遠く離れた「私」による、京都とカーボベルデ、小笠原諸島などのそれぞれの地域で呼び起こされた感情、それぞれのソダーデ/サウダーデという感覚の混じり合いがまた歌へと導かれる。最後の「ハラールの残響」では、エチオピアのハラールという街のストリートを歩く「私」の、その街にある記憶、味やにおい、音によって喚起させられるいくつもの情動が豊かに描かれている。
どの作品も非常に解像度が高い。会話や出来事の描写、音や匂いなどが主人公に喚起させる情動、超自然的感覚との出会い、過去の歴史的地点における哀愁と歌など、執筆者それぞれの研究対象から導かれた想像力が、時と場所を越えた創造の地点へと読者を誘う。その高い解像度へと本書を導いているものに、人称による視点の切り替えにあるだろう。たいてい、学術的な形式にしたがって文章を書くとき、「私」という文字は調査者/筆者を指しており、さらにその語が登場することは基本的に少ない。調査地で出会った人びとの一人称単数の語りはあれど、何かしらの議論を構成するための“証言”を担う引用として、カッコの中で扱われる。しかし、本書で登場する主人公の「私」たち(もしくは「僕」や「俺」)は、民族誌で登場するような“証言”の形式をとらない。事実、「私」という存在は実に不思議である。人間は誰しも「私」であるが、誰かと同じ「私」は存在しない。固有性でもあるようで普遍的でもあるような、自己と他との混じり合いが、人称の工夫を通じて描かれているだろう。こうしたいくつもの視点への移し替えによってふだん記述されない多様な事実や解釈へと道を切り開く手段としてのフィクションは、とても面白い。
最後に、会員である村津蘭さんの作品の「太陽を喰う/月を喰う」を紹介しておこう。後半部「月を喰う」では妖術師の「私」の視点で、希望と憎悪の感情が入り交じる鮮明な物語世界を読むことができるのだが、実際には妖術師を自ら名乗る人物というのはベナンに存在しない。たいてい妖術師は、実体の有無はさておき、噂やレッテルまでも含めた、誰かを名指し、誰かに名指されるような言説である。そのため「私」という一人称の視点から妖術師が描かれることは基本的にない。しかし、作品のあとがきにあるように、後半部の作品「月を喰う」をロジェ(村津さんが一緒に制作したベナン人)が最終稿を読んだところ、「これはまさにここで、本当に起きている話だ!」(p. 117)とコメントしており、それもとても興味深い。フィクションという想像力によって喚起されるリアリティが、たしかにあることを示した瞬間だろう。
フィールドワークの醍醐味とも言えるものに、調査地や調査対象者といった関係を越えた、さまざまな人、土地、感覚との出会いがある。そうした出会いは不確実で形のないようないくつもの感情や記憶とも結びついている。それらが呼び起こした想像力によって、本書が完成したと言える。ここに込められた文章に際立つ音やにおい、感情などを通じて、読者にもまた新たなアフリカとの出会いがもたらされるだろう。

出版社:新曜社
発売日:2019年11月15日
2400円+税/344頁
ISBN-10: 4788516543
ISBN-13: 978-4788516540