土地を買ってみよう。そう思ったのは、西アフリカ・ベナン共和国で宗教の調査を始めてしばらく経った時だった。私は研究のためのフィールドワークという理由で、アラダ市のベナン人の友達の家に滞在していた。
私は、ある宗教の礼拝や集会に通い、その中でどのような実践が行われているのかを観察したり、人々とおしゃべりしながら聞き取りをしたりしていた。信者は優しく私を受け入れてくれた。客人や外国人を尊重する文化だというだけではない。信者たちはその宗教を熱心に信じていたので、私にその宗教に改宗して仲間になってほしい、そして海外に福音を伝えてほしい、と思っていたのだった。しかし、妖術師と闘うために神が少女の身体に降臨した、とする教団の主張を、彼らと同じように信じることは、私には困難だった。私は、彼らの期待に応えられないにも関わらず、彼らの優しさにぶら下がって調査をすることにやましさを覚えていた。しかし、彼らの協力なしには調査は進まないのだった。
宗教に限らず、人類学の調査の多くはこのような側面を有している。フィールドの人々の寛容さと優しさに頼らずには、研究は進まない。しかし、研究が一定の成果を出したとしても、それが協力してくれた人に直接的に還元されるわけではない。論文が日本語や英語で書かれており、アクセスしづらいというだけではない。たとえ研究が人類学に対して理論的に寄与したとしても、それはアカデミックの枠組みから遠く離れた人にとって何の意味もないことも多いのだ。
自分が、人々を文化的にただ収奪し続けている存在なのかもしれない、という考えは私を悩ませた。それと同時に、自分がベナン社会において「お客さん」として浮遊しているだけの存在であることにも、居心地の悪さを感じていた。調査などと言って、決まった期間だけいて、しがらみなく立ち去ってしまう存在を、人々はよく理解していて、特別扱いしつつも、一面的な顔しか見せないのだった。宗教は、人々の生活や社会に深く根差しているものなのに、宗教的な側面だけを見て本当に宗教を理解したといえるのだろうか、という疑問もあった。
そんな時に思いついたのが、ベナンで何か事業をするという考えだった。自分のお金をかけて、損得を含んだ抜き差しならぬ関係へと身を入れていくことで、この土地のことがもう少し多面的に見えてくるんじゃないか、そんな風に思った。しかし、私は日本を拠点としており、ずっとベナンに滞在することは難しい。そこで思いついたのが土地を買うという考えだった。私自身が滞在していなくても管理できる手間で事業をするには、土地を買って建物を建ててしまうのがいいように思えた。お金儲けに興味があるわけではなかったので、目的はベナン社会に何か役立つことにしたかった。あくまでビジネスとして収益を出しつつも、目的は社会貢献であるような事業体が、理想的な形であるように思えた。そこで思いついたのが、部屋数の多い建物を建てて、一部を賃貸で貸し出しながら一部で社会貢献の事業を行うというアイディアだった。
この考えを後押しし、実現させたのがベナン人の友人ロジェだった。彼は、私が青年海外協力隊で滞在している時からの知り合いで、真面目さと勤勉さについて信用していた。彼は私立の小学校の教師をしていたが、職場の待遇が酷く、ちょうど新たな仕事をしたいと考えていたところだった。ロジェに管理を任せられるのなら、事業が実現できそうだった。
しかし、誰にどのように「社会貢献」するのか?何をすることが「社会貢献」になるのだろうか?いわゆる「途上国」に行き、国際協力の現場に行くと多くの人は、貧困を定義することの難しさに直面する。例えば日本では「学校に行けない子どもたち」は悲劇の存在であり、支援をするべき対象とされる。しかし、ベナンには、農作業や物売りといった親の仕事を手伝いながら、生活している子どもがたくさんいる。彼らは仕事を通してその職業に必要なスキルを学びながら、親と一緒に家計を支えている。学校に行くというのは、このような仕事を通じた学びと家計の支えを失うということを意味する。しかも、高学歴の若者が、就職できず都会に溢れて社会問題化している国もある。もちろん、学校に行くのが悪いというわけではない。しかし、よその国のものが子どもたちを学校に行くことを支援する、ということが一概に正しいともいえないのだ。「途上国」を援助する、開発する、ということは、ある社会の将来の形に介入することだと思う。それは、しばしば価値や理想の押しつけになってしまう。だからこそ、介入には慎重になる必要性を私は感じていた。
こう考えたときに、「受け皿」になるような支援であれば、最小限の介入で人びとの役に立てるのではないかと思った。協力隊時代に福祉センターで働いた経験から、家庭内暴力を受けた人びとや、既にある枠組みの中で圧倒的に不利な立場に立たされている子どもたちの存在が思い浮かんだ。彼女らが、逃げ込んだり、職業を学んだりできる場所はどうだろうか。そのようにして、子どもたちの職業訓練所と、暴力を受けた女性のための宿泊施設と、そのための活動資金を捻出する賃貸施設を兼ねた、建物建設へのプランが立っていった。それと同時に、現地でNGO法人を設立する手続きをとりはじめた。
しかし、土地の購入は、多少予想がついていたことではるが、一筋縄ではいかなかった。当時、まだベナンの現地NGOミドフィの設立手続きが終わっていなかったので、私自身の名義で土地を購入する必要があった。その方法について市役所に尋ねると、市長に確認して欲しいといわれたため市長宅を訪問した。私と友人ロジェが訪ねると、市長は、最初は法律上外国人の土地取得は問題があるのではないかと懸念していたが、彼がその場で裁判官に電話したところ、土地が活用されるのであれば外国人であっても問題ないと答えが得られた。そのため、無事土地購入手続きを進めることができた。しかし、その後、売買取引の証明書にサインをしてもらう必要があるので再び市長に会いにいくと、市長が対応を変え、「サインはできない」と言いはじめたのだった。「法律上問題がある」と。
私たちは、市長が言うことを180度変えたことに驚いて市役所に行った。市役所の法律担当の職員も「法律上問題ないのに前例も多くあるのにおかしい」と言ってくれ、一緒に市長にも会いに行ったが、市長は「問題がある可能性がある」と渋るばかりだった。市長自身が裁判官に確認をとったというのに、一体どういうことなのか、とわれわれは戸惑い、いろいろ事情を探ると、どうも、市長と副市長が政治的に対立していることと関係があるらしかった。政治的に対立している副市長が、NGOの書類を見て「外国人が土地は買えない」と主張しはじめ、市長がサインするなら法律違反で訴えるようなことを仄めかしたようだった。それで、市長が守りに入り、とにかくトラブルを避けるためにサインはしないということにしたようだった。契約書がサインされないままであると、リスクを抱えることになる。私は既に帰国していたので、ロジェが、何とかサインをしてもらおうと市役所に毎日訪れ、なぜ地域のためにこの土地が必要なのか説得したり、副市長と仲の良い知人をたてて話をしてもらったりもしたが、一度問題が政治化したため、事態は全く進まなくなった。
膠着した状態のまま、半年経った頃、事態が急展開した。副市長派が企んでいた「市長降ろし」が実現されたのだった。その後選挙を経て、以前の副市長が市長になった。すなわち、サインをすることを阻んでいた当本人である。私たちは「もうサインはもらえないだろう」とがっかりしていた。しかし、だめで元々で、職員が法律的に問題ない旨を書いた資料と一緒にサインを依頼すると、なんとあっさりサインがもらえたのだった。要は、政治的な抗争が終わり、自分が市長になったため、何の問題もなくなったというようだった。
私とロジェは、問題が解決して一安心したが、正直腹立たしくもあった。わずかかもしれないがベナンに役立ちたいという気持ちを、何故偉い人達は後押しするのではなく、政争の具にして、邪魔したりするのだろうか。しかし、考えてみるとそれこそがこの社会に「巻き込まれる」ということなのかもしれなかった。理想や正しさだけではどうにもならない中を、人々は色んな狡知を持って立ち向かったり、すり抜けたりしている。この社会で人々と一緒に何かをしていくというのは、理不尽に見える現実と対峙しながら、そのような知恵も一緒に学んでいくということなのかもしれない、と。
その後、建物を建てるためには自己資金では限界があったため、クラウドファンディングを実施した。これは、同じ大学院に所属する院生が賛同してくれ、メンバーとして一緒にしてくれなければとても不可能なことだった。最初は個人的な動機であったが、メンバーと一緒に活動することで、様々な視点で活動を見ることができるようになった。そして、問題や活動を分かち合うことで、今も活動が続けられている。今回、活動をもっと幅広く知ってもらえるように、このプロジェクトをアフリック・アフリカの活動の一部として実施していくことになった。活動の内容は、ホームページやメルマガで共有していく予定だ。「国際開発」といった言葉で気負うのではなく、現地の活動を、日本の共感してくれる人と、「ソコニイルカ」と挨拶できるような距離でつなげられるように、これからもぼちぼちと活動していきたいと考えている。
※本稿は、アフリック・アフリカ2019年度会報に掲載した文章を一部修正したものです。