この本は1956年にソマリアでうまれたある女性、アマン(仮名)の半生の記録だ。半生といっても、ソマリアでの内戦の混乱期にケニアに脱出する17歳までの話であるが、300ページ近くに及ぶ長さがある。最初はアマンの祖母の話から始まる。「戦争が起きるたびに木によじ登りやり過ごした」という話は、本当に遠いソマリアの話と思わせるものの、読み進めると、だれからも縛られない人生を追い求めるアマンの姿に出会う。この物語が、身近な話であり、進歩的な考えをもった女性の話であることがわかってくる。
アマンの母親は、数えきれない離婚と再婚の繰り返しの中で、「自分の財産を夫のもとに持参し、夫の家に住み、夫の帰りを待つだけの生活など、こりごり」(34ページ)という境地にたどり着く。アマンの母親は、彼女の母、つまり、アマンの祖母の世話をしながら、幾度となく商売に挑戦し続ける。ただし、結婚をあきらめるのではない。祖母と一緒に住み続けることを許容する男性と再婚はおこなうのだ。このような自分の意見を表にしっかり出す母親を持ったアマンもまた、自らの思いを押し殺すことなく生きた。親族から邪魔されながらも、白人の青年との恋をつらぬきとおしたり、父親ほど年の離れた男性との結婚を、最初は母親を助けるためにお金を手に入れたいという気持ちから承諾するが、その後何度も逃げ出すことを繰り返しては、親戚や友人の家を泊まり歩く。長く暮らした村の人びとたちからは「娼婦」というレッテルを貼られながらも、ソマリアの都市モガディシオで友人たちと遊び歩き、何人かの男性と付き合ってみる。「自由気ままに生きたいという少女たちだってたくさんいる。女だというだけでひとつの型にはめようとするほうがまちがいなのだ」(167ページ) と意見はしっかりもっているものの、少し不安定なアマンのようすをドキドキしながら読者は見守り続けることになる。そしてふと気づけば、遠いソマリアの話が、青春のティーンエイジャーの葛藤となって身近なものに感じられるのだ。決して遠い国の話ではないのだ。
もちろんこの本をとおして私たちはソマリ人たちの文化や社会についても詳しく知ることもできる。アマンの物語を聴きとっていたのが人類学者だということも関係しているのだろう。物語の中では、アマンの親族がどのように一族の名前を大事にするかを示したり、結婚するときに夫方の親族から妻方へ贈られる婚資(お金や財産)がどのような気持ちの表れとなるのかなども説明される。この著書の魅力的な点は、ソマリ人たちの文化について丁寧に説明がなされたうえで、その文化に反する行為を選ぶアマンの決意が語られることである。ソマリ人社会とは異なる文化に生きる読者でも、慣れ親しんだ文化の中で自分がどう生きるかという普遍性のある問題として、アマンの語りを聴くことができる。それは、女子割礼の話も同様である。ともすれば、女性性器の一部を切り取る(時には縫合もおこなう)行為を含む女子割礼という慣習は、その暴力性ばかりが強調されて、女子割礼だけでなくその文化全般を否定する語りを生んでしまいやすい。しかし、アマンの物語の中では、アマン自身が割礼を受けるときの不安や、受けた後の痛さ、そして自分の性器を誇らしく思う気持ちも素直に語られる。 文化と暴力が非常に密接な関係にあること、その暴力を取り除くことは簡単ではないことも実感させられる。
この物語のはしばしにソマリアだけにとどまらない「アフリカらしさ」が見え隠れする部分も面白い。暮らしていた場所でうまくいかなかったときに、ぱっと移住するアマンの家族たちの様子や、別の土地にいっても、親戚たちとのつながりにより住む場所を手に入れてしまう様子。ここからはかれらの流動性の高さを感じるとともに、親族のつながりの強さも実感できる。さらに、アマンの都市生活の中では、アマンと同じソマリ人だけではなくて、「奴隷部族」の出身の人たちや、イタリア人などの外国人も登場する。互いに偏見をもっている一方で、アマンは自分とは違う出身の人びとにも多く助けられて成長する。アマンの大冒険を追えば追うほど、アフリカの人びとの弱さと寛大さが見えてくることになるだろう。
この本には、ソマリア、アフリカの状況、少女がぶつかる葛藤が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。一気に読むには少し喉が渇いてしまうかもしれない。それほど、手に汗にぎる出来事の繰り返しなのだ。しかしアマンが自分の人生に挑戦する姿を、ゆっくりでも読み続ければ、自分ももう少しがんばってみようかなどと思わせてくれる、小さな勇気を手にすることができるだろう。
書籍情報
出版社:早川書房
発行:1995年 4月
ISBN-10: 4152079142
ISBN-13: 978-4152079145