『路上のストライカー』 マイケル・ウィリアムズ=作、さくまゆみこ=訳

紹介:大門 碧

2度、泣いた。読みながら2度、涙があふれた。10代向けのヤングアダルト小説ではあるが、いや、だからこそなのか、2度も泣いてしまった。

主人公は、ジンバブエの村で生まれ育った少年デオ。彼には知的障害をもった兄のイノセントがいる。ある日、友達とサッカーをしているときに、あらわれたのは兵士たち。デオの住む村は、大統領を支持しない投票結果を出したことを理由に、兵士たちに破壊される。イノセントを連れて逃げ出したデオは、必死な思いで南アフリカへと渡ってゆく。

作家は南アフリカのケープタウン生まれ。2008年5月に南アフリカで実際に起きた外国人への襲撃をきっかけに、ゼノフォビア(外国人憎悪)に関心を持ち、ジンバブエから来た若者たちに話を聞き、この物語の創作に至った。

物語のなかで、ゼノフォビアはデオの前に立ちはだかる。命からがら南アフリカに逃げて来たにも関わらず、難民の外国人たちに職を奪われたと考え、外国人を憎む地元の人びとに遭遇するのである。特に、デオがつらい思いを振り払いサッカーをしていても襲ってくるゼノフォビアには気が滅入る。南アフリカの村で、地元の子どもたちとサッカーに興じている最中に大人たちが言う「出ていけ、ジンボ(ジンバブエ人のこと)!」という暴言。ケープタウンでストリートサッカー(※)の練習中に南アフリカ出身の少年から出た「南アフリカ人対外人の試合をしないか?」という提案。それらの裏にある冷たい憎しみは、容赦なくまだ10代半ばのデオに突き刺さる。

しかし本書が描くのはゼノフォビアだけではない。私が2度も泣いてしまったのは、デオと兄イノセントとのあいだに起こる出来事が、デオの心情とともに繊細に暖かく描かれていることに起因する。ジンバブエから南アフリカへ向かう辛く苦しい旅路も、イノセントがいたからデオは乗り越えられたし、読者もまた読み進めることができる。イノセントの面倒をみていると思っているデオが、実はイノセントに支えられていることにデオと一緒に実感していく。だからこそ、イノセントと離れてしまったときのデオの苦しみは、共感を通り越して自分自身の苦しみとして受け止めてしまうほどだ。「どうしてぼくはこんなに不注意なのだろう?ぼくの手は汗ばみ、胃の中にはヘビが這いこんでいた。イノセントがいなくなってしまった。」(185頁)

サッカーがデオを支えていることにも気づく。ある町にたどり着いたとき、デオがイノセントにうながされてサッカーボールでリフティングをする。そして自分を見つめる見知らぬ少年にボールを蹴ってみる。蹴り返される。互いに名前を言い合って、サッカーの試合を始めていく。読者は、それまで続いてきた壮絶な旅をしばし忘れて、デオがほかの子どもたちとサッカーをする様子を、わくわくする思いで見守ることになる。

走る場面の描写も印象的だ。サッカーの試合中だけでなく、国境沿いの自然保護区をとおるとき、まちなかでの外国人を標的にした襲撃から逃げるとき、デオは必死に走る。「ぼくの足は悲鳴をあげ、ぼくの肺は空気を求め、ぼくの心臓は二倍の速さで打っていたが、ぼくの脳はそれをすべて無視していた。」(124頁)原題が『Now is the Time for Running(今こそ走るとき)』である。この「走る」にこめられた意味は何なのか、私には明確にわからない。ただ物語の終盤、「走る」ことが、デオにとって単に敵から逃げることや現実を忘れるためではなくなったとき、私は少し胸をなでおろすことができた。

さあ、あなたはどの場面で何度泣くだろうか。いや、泣く必要はない。とにかくデオの物語に没頭してほしい。そして結果として、自分たちとは「異なる人」に対して勝手に抱くとげとげしい思いを考え直すきっかけを手にしてほしい。

※ストリートサッカー・・・本書でとりあげられているストリートサッカーとは、通常のサッカーとは異なり、一度にピッチに立つのは1チーム4人のみで、コートの四方を壁で囲み、壁に当ててパスをつないで試合をおこなうものである。