紹介 井上真悠子
本書は、2017年に急逝された根本氏が生前に書かれた文章を一冊の本にまとめたものである。タンザニアに30年以上暮らし、現地で旅行会社を経営しながらインド洋西域の歴史を追い続けていた根本氏は、スワヒリ世界を、海・陸、過去・現在をまたぐ大きな視点から見つめ続けていた。
アフリカに興味を持つ私たちが「スワヒリ」と聞いてまずイメージするのは、東アフリカ海岸部だろう。しかしながら本書は、中東・オマーンへの旅から始まる。
「スワヒリ」という言葉は、「海岸」を意味するアラビア語からきたというのが通説である。アラブやペルシャの商人たちは、古くからインド洋に吹く季節風(モンスーン)を利用し、東アフリカ海岸部と交易をおこなっていた。この交易をつうじて人々がまじわり、形成されたのが、東アフリカ海岸部のスワヒリ社会・文化である。
なかでもオマーンは、19世紀前半には首都をマスカットからザンジバルに移したこともあるほど、スワヒリ世界と深いつながりがある。根本氏は、オマーンの旅で出会ったスワヒリ世界とゆかりのある人々を、「海域世界の末裔たち」と表現している。そして、「インド洋は隔てるものではなく、人や文化や物を結びつける『道』」である、と言う。飛行機も車もなかった時代から現在に至るまで、海をわたる船は、人間にどれだけの交流をもたらしてきたのか。国境線などはるかに超えるその壮大さに、改めて圧倒される。本のタイトルにもある「海の市民たち」とは、このような国民国家の枠組みを超えた世界に生きる人々を意味しているのだろう。
オマーンから季節風に乗って東アフリカ海岸部にやってくると、ラム島・マリンディ・モンバサ・ザンジバル・キルワ・モザンビーク島など、いくつものスワヒリ都市がある。インド洋交易、奴隷制度、植民地支配。根本氏はひとつひとつ遺跡や街を歩きながら、過去と現在を俯瞰するかのように、ていねいに歴史をひもといてゆく。
ケニアのゲデも、タンザニアのキルワも、はるか昔、インド洋交易によって栄えた都市であるが、現在は都市の面影はない。静かにたたずむ遺跡を思い出しながら、往時はあそこに一万人もの人が住んでいたのか、どんな人たちがどのように暮らしていたのだろうかと、根本氏の解説を追いながら想像をふくらます。私自身も訪れたことがある場所もいくつかあったが、根本氏の目を通して語られる空間は、私が自分の目で見たはずのそれよりも確実に色を帯び、そこに生きる人々の息づかいが感じられるほどに解像度が上がっていた。歴史をよく知る人の目にはこんなにも細部まで鮮やかに見えていたのか、と驚きながら、根本氏の目を借りて、東アフリカ海岸部のスワヒリ都市を改めてじっくり歩かせていただいた。
そして最後の章では、タンザニアの西の端・ウジジまでたどり着く。海岸部から始まったスワヒリ文化は、キャラバンルートに沿ってタンザニアの内陸部まで広がっていたのだ。スワヒリ文化は、海を渡り、陸を歩き、さまざまな民族・文化をもつ人と人との関わりの中で形づくられ、広がっていった。スワヒリ語の有名なことわざに「山と山は出会わないが、人と人は出会う」というものがある。山は動かないが、人は移動し、人と出会う。本書は、インド洋を中心としたスワヒリ世界の人々の動態を、あますところなく内側から見せてくれる。
もうご本人からお話しを伺うことが叶わないのが残念でならないが、これから現地に行く人は、ぜひ本書を読んでから行ってみて欲しい。また、すでに行ったことがある人、行く予定がない人も、本書を読めば、まるで根本氏の目を借りて現地に立っているかのように、生き生きとしたスワヒリ世界を感じることができるだろう。
書誌情報
- 出版社:昭和堂
- 発行:2020年
- 単行本:276ページ
- 定価:2,420円(本体2,200円+税)
- ISBN-13:978-4812220023