『おいしいコーヒーの経済論−「キリマンジャロ」の苦い現実』 辻村英之=著

紹介:黒崎 龍悟

今や私たちの生活のなかで欠かすことのできない嗜好品のひとつがコーヒーである。日本にいながらにして、さまざまなブランド・価格のコーヒーを楽しむことができる。しかし、私たちは商品棚に並ぶまでにコーヒーがたどるプロセスを十分に知ることは少ない。とくに、生産農家の状況に思いが及ぶ機会は少ないのではないだろうか。

本書は「キリマンジャロ」を産出することで有名なタンザニアのコーヒー生産農家の実態に焦点を当てて、コーヒーが生産されて、私たちのところへ届くまでのプロセスと、コーヒーの価格形成の仕組みを解説したものである。同地の生産農家は、先進国で商品として売られているコーヒーの値段に比べて驚くほどの利益しか得られていない。本書はまず、こうした状況を生み出している世界規模の「フード・システム」の仕組みと問題点を述べている。たとえば以下のような説明がある。「・・・喫茶店で1杯450円のキリマンジャロを飲んでも、2.0円が生産者の取り分となっているにすぎない」その反面、「コーヒーの香味は一般的に、7割が生豆の生産・流通、2割が焙煎、1割が抽出の技術に依存するといわれている。生産国による7割の香味への貢献が0.9%の取り分にしかつながらない・・・」(p.105)。しかも、コーヒーからの収入は、世界市場での価格の変動を受けるので、一定しているわけではない。世界市場での価格が下がれば、生産農家の取り分はこれより低くなる可能性もある。そして、コーヒーからの収益の低さや不安定さは、経済面だけではなく環境保全面、教育・保健衛生面、家計安全保障面など、現地農家の生活にさまざまなかたちで影響を与える。このことを踏まえて、本書の後半では、生産者価格を保護する取り組みである、「フェア・トレード」の内容と意義について詳しく説明している。

ところで、この本のテーマは、「おいしいコーヒー」とは何か?ということにある。人間が食べ物の「おいしさ」を感じるには、「生理的」、「食文化」、「病みつき」、「情報」の4つの要素があり、現代のように情報が氾濫する時代にあっては、消費者は、特に「情報」に依存して微妙なおいしさの価値判断をするという。コーヒーに関する「情報」として、世界規模のフード・システムの末端にいる生産農家の苦い現実が入り込めば、飲む人にとって「おいしさ」は半減するかもしれない。しかし、「フェア・トレード」によるコーヒーであれば、生産者価格の保護と同時に、その収益を現地の学校建設や診療所の再建といった社会開発に充てるので、情報には「生産者支援」という要素が入り込む。「フェア・トレード」のコーヒーのおいしさとは、「生産者支援」という情報によって、「生産者たちの不利な状況」という情報が苦くした香味を取り戻すことである、と筆者は述べる。もちろん、生産と消費の間に横たわる問題はコーヒーのものだけではない。この本は、そうした問題に対する意識を高めるきっかけにもなるだろう。

ちなみに長年、タンザニアの国内一位を誇っていたキリマンジャロのコーヒー生産量は現在、第三位である。(第一位はムベヤ州ボジ県、第二位はルヴマ州のムビンガ県)。キリマンジャロは大都市にも近く、コーヒーがだめであれば、別の換金作物に切り替えやすい地理にある。コーヒーの生産量が低下している所以である。しかし、大都市から遠く離れたボジ県やムビンガ県はそういうわけにはいかず、生命線としてのコーヒー生産の重要性はキリマンジャロよりも高い。タンザニアという国のなかだけでも、コーヒー生産をめぐる問題に地域差があることも指摘しておきたい。