第29回アフリカ先生「兵庫県立西宮今津高校」報告

「“いっしょにいること”を考える—多民族共存の場としてのアフリカ熱帯林」(2008年11月13日)

大石 高典

この授業では、ライフスタイルや価値観が異なる人々がいっしょに暮らすということについて、カメルーン東南部の森林地帯のバクエレ人とバカ人がつくる地域コミュニティを事例に考えました。

アフリカ大陸の衛星画像を見ると、コンゴ盆地を中心に真緑の部分が広がっています。これが中央アフリカの熱帯林です。この地域にはピグミー系狩猟採集民と呼ばれるグループとバンツー系農耕民と呼ばれるライフスタイルの異なる二つの民族集団が居住してきました。

私が調査地としているカメルーン共和国東南部の南縁にあたる地域では、バカ人とバクエレ人が隣り合って暮らしています。バカ人たちは、かつては森の中で狩猟採集を中心に遊動生活をしていたと考えられますが、1960年には既に定住生活を始めたという報告があります。バクエレ人たちも以前は広い範囲の森の中に点々と散らばってリョウリバナナやキャッサバを中心とした小規模な自給用の焼畑を作りながら、狩猟採集をしたり、漁労をしながら暮らしていましたが、1930年代には換金作物であるカカオが導入され、定住・集住化が進みました。現在では、このカカオ畑が地域の現金収入のほとんどをまかなっていますが、それでも人々は、雨季と乾季で生活パタンを変えながら森に入って過ごします。

しばらく以前までは、ピグミー系住民とバンツー系住民は、それぞれの生産物である獣肉や蜂蜜と農作物の物々交換経済に基づく生計経済的な「共生」関係にあったと考えられますが、バカ人の人々は最近数十年の間に焼畑農耕を受容し、移動生活から定住生活へと生活スタイルを大きく変えました。現在では、小面積ながらも自分たちの畑を持ち、主食のバナナやキャッサバをバクエレ人に頼ることなく栽培し、手に入れることができる自給力を持つまでになりました。

しかし、バクエレ人はバカ人を一段下の人間とみなして差別し、動物呼ばわりしてけなします。バカ人はバカ人で、バクエレ人をゴリラに喩えて嗤います。村々の学校では、バクエレ人の子供たちとバカ人の子供たちの間でいじめやケンカがみられることも少なくないのです。かと言って、バクエレ人とバカ人はいつもいがみ合っているわけではありません。どちらかに不幸があれば共に悼み悲しむし、病人の治療のために互いに協力したり、相談する様子もよく見られます。

バクエレの側からすればバカの人々は依然「労働力」として重要なのかもしれませんが、バカ人の側からすればバクエレ人の近くで生活するメリットはどこにあるのでしょうか。畑がうまくいかないときや、病気の時、金が入用な時などトラブルで困ったときに、助けてくれるキョウダイのようなものだと彼らは言います。自前で畑を開き自給できるとは言っても、完全に関係を断つことは「なんだか不安」なのだと。このように、バカ人とバクエレ人の間には、単に差別と一言では片付けられない愛憎の混じりあった微妙な感情の揺れ動きが見受けられます。

翻って、私たちの住む日本列島ではどうでしょうか。例えば、昭和初期まで各地の山地には木地師と呼ばれる人々がいました。木地師たちは、数家族単位でブナやミズナラなど木地制作に必要な木を求めて山中を移動しながら暮らす遊動的な生活形態をとっていたことが知られています。民俗学的な研究により、彼らは、まったく里の定住稲作民とのかかわりなく生活していたのではなく、むしろ各地の里人を媒介とする社会的なネットワークによって、世界につながりながら生きていたことが分かっています。そこでは、里人や平地民は木地師のような特別な技能をもった民を差別・軽蔑すると同時にまた尊敬と嫉妬の念をも持っていたのです。

このように、ものづくりや生業の役割分担のシステムとそれによる人間集団間のネットワークは、アフリカだけではなく、ごく最近までの日本の民俗社会には類似した関係がごく普通にみられたということができます。現代日本に生きる私たちは、アフリカの村落社会に比べて相当「国際化」しているはずですが、異なる文化や背景をもつ人々と日常的につきあい、“いっしょにいること”についての自前の哲学をもっているでしょうか。アフリカのような、一見遠い社会に関心を持つことと、日本において身近な他者に関心を持つことのつながりに言及して、授業を終えました。