『たまたまザイール、またコンゴ』 田中真知=著

紹介:高村 伸吾

ザイールの旅、コンゴの旅

本書は中部アフリカを貫くコンゴ河を二度に渡って旅した田中真知さんの道中記である。前半部では1991年、たまたまザイール共和国(現コンゴ民主共和国)を訪れた作者の悪戦苦闘の日々が綴られている。旅行の難易度が極めて高いこの国を、陥没する悪路をトラックに揺られ、丸木舟を漕ぎ、動く町とも形容されるオナトラ船で首都キンシャサへとむかう、過酷な旅の過程が臨場感たっぷりに描かれる。一度目の旅を振り返り、彼はこう結ぶ。「こんな愚にもつかない、とほうもなく無駄で、底抜けにばかばかしい、たまらなく幸福な旅をすることは、もうけっしてあるまい」。底抜けにばかばかしく、そしてたまらなく幸福な旅。一見矛盾するようだが、コンゴ河をめぐる物語の要約としてこれほど的を射た表現はないかもしれない。人々の発する過剰なまでの熱気、無限に続く不条理にあてられて今まで自分が拠って立っていた世界が根底から覆される、そんな経験は人生にそう何度も得られるものではない。どんな心境の変化があったのか、21年の時をはさみ再び彼はコンゴ河を旅することになる。

「世界は偶然と突然でできている。」本書の帯にはそう記されている。その通りだ。コンゴで日本語を教えていた僕は導かれるように真知さんと出会う。偶然の出会いがあり、突然の申し出を受け、僕は真知さんの“またコンゴ”の旅に同行することになった。当時のコンゴ情勢はお世辞にもよいとは言えず、通りを歩くのにも緊張を強いられる毎日だった。熟練のバックパッカーですら時に拉致されてしまうという噂を耳にしたり、実際に何度か怖い思いをしたりもした。街の大通りを歩いている時、人々の表情や界隈の雰囲気を神経質なまでに観察し、警戒を緩めない。安全に対する意識が日々高まっているにも関わらずそれでも僕の行動範囲は宿舎からマーケットまでのせいぜい3kmほどだ。

2012年の10月初旬、突然キンシャサに現れた真知さんはそんな僕にこう言った。「シンゴ君、コンゴ河を一緒に下ってみない」意外なことに、一拍おいて口から出たのは「いいですね、行きたいです」という言葉だった。首都で日本語を教えるようになって早一年と半年、決まった道を往復する毎日に飽きていた。もっとこの国を見てみたいという思いがどこかにあったのかもしれない。「行きたいです」といった瞬間、耳元でカチッとスイッチが入ったような感覚があったのを今でも覚えている。10日ほどの準備期間を経て、首都キンシャサから東部州の州都であるキサンガニへと飛んだ。大変だろうと予想してはいたが、この国を旅することの大変さはその予想を遥かに超えていた。

キサンガニへ

これを不条理といわずして

キンシャサの空港に移動した瞬間から度重なる賄賂の要求が始まる。「ここを通過したいのならお金を払え」数メートル進むたびに賄賂を求める手が伸びてくる。すごい圧力だ。旅が始まったばかりで、まだ萎縮していた僕らはこうした要求を値切ったりはぐらかしたりと、その後も各地で賄賂要求の洗礼にさらされた。アフリカ大戦とも呼ばれた紛争が終結して10年足らず、政府は充分に機能しておらず公務員の給料は数か月の遅配が当たり前で、最悪の場合支払いすらされない。まるでゲームでも楽しんでいるかのようにパスポートやビザに問題があると詰問が続く。もちろん彼らの現実を思えば致し方ないと思える点もあるのだが、わずかな時間に5回、10回と賄賂の要求が続くとこちらもイライラしてくる。キサンガニの空港を出た頃には、もう不当な請求は突っぱねよう、一銭だってはらうものかという気持ちがせり上げてきた。キンシャサを出て数時間、コンゴ河の旅はまだ始まってもいなかった。

キサンガニからキンシャサまでの総移動距離は1700kmを超える。小さな幸運が重なりオッギーという現地ガイドの協力を得ることができ、おぼろげながら旅の全容も見えてきた。オッギーによればヤレンバという村まで丸木舟で向かい、その後、停泊する大型の動力船に乗ってキンシャサを目指すのが有望だという。数日かけて丸木舟や鍋などの調理器具や食糧を買い込み、旅の準備をする。この準備の間も入国管理局の役人による賄賂要求は続いた。宿泊していたオッギーの自宅にまで現れるという執拗さだ。一日も早くここから脱出しなければ、役人たちの襲来を受けた翌朝、オッギー、彼の友人のサレ、真知さん、僕の四人は丸木舟を漕ぎ出した。

コンゴ河の流れはまるで鏡のように穏やかだった。コンゴ河の両岸には熱帯林が広がり、青空と白い雲だけがひらけた水面に映り込んでいる。しかし美しい景色とは裏腹に問題は山積みだ。紛争以前とは異なり河の途中途中には関所が設置され、軍隊による厳しいチェックが入る。関所をとおる度、暇を持て余した兵士たちとの交渉に巻き込まれる。彼らの機嫌次第で河下りは中断を余儀なくされる。関所が近づくと、オッギーは「ここでは絶対に写真を撮るな」と強い口調で僕らの注意を促し、綱渡りが続く。

丸木舟で下る 撮影:田中真知
集落での聞き込みからヤレンバではなく、その手前にあるリレコという村に進路を変える。事前情報がほとんど得られないコンゴでは現地での聞き込みに応じて柔軟に旅程を変更しなければならない。変更によりいくらか漕ぐ距離を省略できたとはいえ、そこでも予想外の足止めをくらう。ようやくたどりついたリレコに船が来る気配がまったく無いのである。オッギーは三、四日滞在すればキンシャサに向かう動力船を捕まえられるだろうと言っていた。しかし、一週間経っても船が来ない。「船はいつ着くのか」来る日も来る日も同じ質問をし、村の人々はみな口をそろえて「明日にはつくだろう」と繰り返す。どうしたものか明日は来ない。

コンゴの深みにはまる

出発して三週間、まだ全体の十分の一も進んでいなかったが、不思議なもので、この頃から僕の内面に変化があらわれる。首都で暮らした一年半とは明らかに異質な旅の現実にさらされ、まだ自分の中に残っていた日本人の感覚がそぎ落とされた。この国の日常は蛇行を繰り返す。物事が思い通りに進むなんてことはありえない。課題にぶち当たり、それを解決し、その行動が新たな課題をまきちらす。キンシャサを出てほどなく、真知さんはことあるごとに“許す”という言葉を口にしていた。役人に賄賂を要求されたけど、許す。予定はまったく思い通りに進まないけれど、許す。真知さんの際限ない許しが刷り込まれたのか、僕も「ま、いっか」という諦めにも似た、だけどそれとは少し違う感覚になじんでいった。相手の世界を拒絶して何かが好転するわけじゃない。たとえ、問題があったとしても、どうにもならないけど、どうにかするだけだ。そんな踏ん切りがつくと、何かが動きだした。

乗り込んだ動力船
二週間ほど待ってようやく船があらわれた。もちろん旅の続きは一筋縄ではいかなかった。その後も船が寄港する度に賄賂の要求は続いたし、僕らが乗り込んだ動力船も予定通りには進まなかった。途中の港で停泊を繰り返し、いつ終わるとも知れない荷物の積み込みが延々と続く。残りのビザや授業の兼ね合いもあり、高速艇に乗り替えなければならなかったほどだ(その高速艇もトラブルが頻発し予定の二倍の日数を要した)。ただ、リレコ以降の船旅は、なぜだか心地よかった。

まだ薄暗い中、人々はなかば横になりながら突然讃美歌を歌いだし、その大音量で叩き起こされる。狭い通路では猿の毛皮がはぎ取られ解体されていく。ぬらぬらとした巨大な肺魚やヘビ、芋虫が並べられ、その合間を人々が往来し、寝っ転がり、ボードゲームに興じたり、料理をしたり、話しこんだり、ときおり怒気のまじった説教が聞こえてくる。船内は喧騒と強烈な匂い、おびただしい人の熱気で満ちている。おそらく旅を始めた当初であれば、うんざりしていただろう。なのに、それが心地よかった。ただ一緒にいただけなのに、船にのる人々すべてが一つの家族になったような、そんな気がした。一緒に起き、一緒に祈り、他愛もない話をし、食事を分けあい、眠る。それだけがいつまでも繰り返される。その反復の力強さに圧倒された。そしてそれは日本では味わったことのない充足感だった。

自分の世界が広がるのではなく、無理矢理こじ開けられるコンゴの旅を幸福とよべるのか未だに結論は出ない。あの旅はきつかったし、神経をすり減らされた。一度漕ぎ出してしまえば帰るに帰れない。限られた時間の中で、明日の予定が立てられず、途中途中の突然のトラブルに翻弄される毎日には正直不安や恐怖もあった。しかし、真知さんの記述にそうした悲壮感はにじんでこない。むしろ彼には度重なる不条理を笑いに変えてしまう老獪さがあった。本のページをめくると、きつかった瞬間がたびたび叙述される。ただそこで叙述されるエピソードには真知さん一流の諧謔があった。ともすれば、ヒロイックな冒険譚として語られがちなアフリカ最深部の旅も、彼の手にかかればユーモアになる。旅の最中にはそんなこと考える余裕は一片もなかったけれど、改めて当時を振り返るとコンゴの不条理に翻弄される自分たちがまるで喜劇の登場人物であるかのように感じられて可笑しい。悲壮でもなく、大げさでもなく、あの過酷な旅がこれほど笑いを誘う面白い読み物になるとは、本当に驚かされた。

また、真知さんと一緒に旅をすることは勉強になった。度重なる不条理の連続に対して、彼はただ「許す」という言葉で向き合った。相手を否定するのでも自分を否定するのでもない。彼は世界を否定しない。ただ今ある状況を受け入れる。こうした姿勢は、くしくも僕らが出会ったコンゴの人々の姿勢に通じているように思う。僕らは異なる世界に邂逅する際、無意識に他者の考えを評価し、批判し、自分が正しいという狭量な思い込みにおちいりがちだ。しかしそこにとどまっている限り、世界の豊かさには触れられない。どうすればいいのか、彼にとってその答えの一つがコンゴ河の旅だったのだろう。

日本にとどまっている限り、僕らは自分の世界のルールにとらわれている。不条理と思えるような他者の存在なくして、こうした自分の偏りを自覚することはできない。彼の許すという言葉は別に他者を許しているというものではない。むしろその状況、自分の至らなさも含めてすべてを一度肯定しているのだと思う。コンゴの人々の生活、一人一人の言葉を丹念に記録していく彼の姿勢は、一見、不条理で底抜けにばかばかしく思えることにこそ、自分の世界を広げる何かがあることを示唆しているのかもしれない。僕らとまったく異なる不条理な世界と接触できれば、それはコンゴの人にとっても、日本の人々にとってもたまらなく幸福なことにつながっていく可能性を持っている、真知さんとの旅を通じて僕がうけとった大切なメッセージだ。

書誌情報

単行本:303ページ
出版社:偕成社
定価:2,300円(税別)
出版年:2015年
ISBN-10:4030034209
ISBN-13:978-4030034204