『ランボー全集』(Ⅱ) 著:アルチュール・ランボー 人文書院 1977年

紹介:庄司 航

本書は19世紀フランスの詩人、アルチュール・ランボーの全集である。なぜ本書を「おすすめアフリカ本」として紹介するのかというと、ランボーがやりとりした手紙が収められているからだ。私は以前この「アフリカおすすめ本」のコーナーで『ランボー、砂漠を行くーアフリカ書簡の謎』という本を紹介したことがある。今回紹介するのは、まさにその書簡そのものである。
手紙はそのときどきの感情や諸々の用事にしたがって書かれるものだから、小説や論文のようにそこにまとまった考えや主張が示されているわけではない。だがそれゆえにかえってそこに作者の根底にある思想や精神を感じられることも多い。

ランボーは十代で後世に残る数々の詩を発表した後、ニ十歳で詩作を放棄する。その後ヨーロッパ各地を放浪し、最終的にアビシニア(今のエチオピア)のハラルにたどり着く。そして37歳で病で死ぬまでランボーはハラルを拠点に貿易業に従事することになる。

手紙を読む限りでは、ランボーはアフリカ生活を楽しんだとはとても思えない。ハラルからフランスに住む家族宛の手紙を抜粋してみる。

  • 「……僕はいとも退屈で無駄な生活をしています。……」1881年2月15日 ハラルにて 家族宛

 

  • 「……でも、今後とも今同様に我が身を疲労させ、このひどい気候のなかで、猛烈でもあれば馬鹿げてもいる苦しみで我が身を養い続けるほかないとすれば、死期を早めることになりそうです。……」1881年5月25日 ハラルにて 家族宛

 

  • 「……僕はアフリカのこの地域で相変わらずひどく不愉快な思いをしています。やりきれない気候で、湿度も高い。やっている仕事は馬鹿げたもので、頭がぼけてしまいます。生活状態も概して馬鹿げています。……」1881年9月2日 ハラルにて 家族宛

 

  • 「……相も変わらずいやな思いをさせられどおしです。ぼくくらいいやな思いをした人間は今までにもいなかったに相違ありません。……」1888年8月4日 ハラルにて 家族宛

 

  • 「……ぼくの生活はつらいものです。どうにもできない倦怠とありとあらゆる疲労を味わっている、と言えばそれで言いつくしたことになります。……」1888年11月10日 ハラルにて 家族宛

 

一貫してこの調子で文句が続く。次の文などはまるで詩集『地獄の一季節』の一節のようだ。

 

  • 「……ああ! こうした行ったり来たりの旅、奇妙な人種のあいだでの疲労と冒険、頭の中に一杯つめこんでいる諸国の言葉、名づけようもない苦難、一体これらは何の役に立つというのでしょう。……」1883年5月6日 ハラルにて 家族宛

 

しかしランボーは死ぬまでアフリカに執着していた。1891年に右足に腫瘍ができ、フランスの病院にかかる決心をする。右足の症状が悪化し、切断せざるをえなくなるが、ランボーはあくまでハラルに戻ろうとする。

 

  • 「……私は今この手紙を、フランスのマルセーユで認めております。私は入院しております。六日前に脚を切断されてしまいました。目下経過は順調で、二十日ほどすれば治ることでしょう。数か月以内に、ハラルに戻って、以前と同じように商売をしたいと思っております。……」 1891年5月30日 マルセーユの病院にて ハラル提督宛

 

  • 「……しかしやはり今までいたところに帰りたいと思っている。向うなら十年来の知己もあり、ぼくに同情もよせてくれるだろう。かれらのところで仕事を見つけて、しかるべく生きることもできるだろう。(中略) ぼくは向こうに帰るつもりだ。ぼくはどうしても向こうに帰らなくてはならないのだよ。……」1891年6月23日 マルセーユの病院にて 妹宛

 

この態度はずいぶん奇妙に思えるが、ランボーはこれまでもアフリカに対しアンビバレントな態度をとっていた。ランボーはアフリカの悪口を言いつつ、なんだかんだと理由をつけて決してフランスに帰ろうとはしなかったのだ。

やがてランボーは全身が癌におかされ混濁状態になる。そして妄想の中でアフリカを旅している。看病していた妹が、その妄想について母親への手紙に書いている。

 

  • 「……わたしたちはハラルにいます。いつもアデンに向けて出発するのです。駱駝を見つけて隊商を編成しなくてはなりません。かれは関節のついた新しい義足をつけて、至極容易に歩いていきます。……」1891年10月28日 マルセーユ 妹から母親宛て

 

死の二日前には、アフリカ行きの船を手配する手紙を出そうして、看病している妹に書きとらせている。

 

  • 「……アフィナール(※船会社の名前)の船のスエズまでの船賃をお知らせください。わたしはまったく不随の身です。ですから早めに乗船したく思いますので、何時に乗船すればよいのかお知らせください。……」1891年11月9日 支配人宛

 

ランボーのアフリカへの態度は常にアンビバレントなものであった。いったい何がこうした態度をとらせたのだろうか。また何故ランボーは詩を捨てアフリカに行ったのだろうか。多くの批評家や文学研究者のように、それを謎ととらえ分析を試みるのも面白いが、そこまでしなくてもアフリカを舞台にした一人の人間の数奇な生涯をただ追いかけてみるだけでも興味深いものだと思う。

 

※書簡は全集のⅡ巻、Ⅲ巻にまたがっておさめられています。

 

書誌情報

出版社:人文書院
発行:1977年7月