コンゴ・声をつなぐプロジェクト(第4話)

コンゴ民主共和国でフィールドワークを続けている会員が、困難な生活を乗り越えようと奮闘している調査地の人々の生活を支援しています。コロナ禍や現地状況の悪化によって長らくプロジェクトは休止していましたが、2026年、いよいよ新たなプロジェクトが始動しました!名づけて「声をつなぐプロジェクト」です。

連載第4話は、2020年~2021年のコロナ禍による中断を経て研究活動が再開された2022年のエピソードです。3話の古市剛史さんと共に現地入りし、住民との難しい交渉に臨んだ山口亮太さん(アフリック・アフリカ、ビーリア保護支援会)による報告です。

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第4話:軟禁で心が折れる(山口亮太)

世界的なコロナ禍がひと段落し、ようやく行くことができるようになったフィールド。しかし、待ち受けていたのは会議に次ぐ会議、法外な要求、村人からの冷笑、そして人生初めての軟禁(!?)であった。これは、僕が10年も通った調査地で、調査再開に失敗し、心が折れてしまった記録である。

2022年8月、僕はほぼ3年ぶりにワンバの地を踏んだ。しかし、気分は晴れやかではなかった。今回は、調査というよりは地域住民と交渉することが主な目的であったためだ。しかもそれは、要求がエスカレートして拗れに拗れた携帯のアンテナ問題を含んでいた。地域住民との交渉は、ワンバで調査をする研究者の代表の古市剛史さんが主導し、僕はそのサポートという位置づけだった。古市さんとフィールドに入る機会はそれほどなかったことと、今回が古市さんの最後のワンバ入りであったことから、ご一緒できること自体は楽しみにしていた。しかし、ワンバでの交渉のことを考えると、どうしても気が重くなった。

ワンバでの交渉も頭が痛かったが、それと同じくらい重くのしかかっていたのは、ワンバの隣のイヨンジでの地域住民との交渉だった。イヨンジでは、僕の師匠である木村大治さんが80年代から調査をやっており、僕自身は2011年から調査をさせてもらうようになった。その後、木村さんは2018年にアフリカでの調査を最後にし、2019年からは僕がひとりでイヨンジに通うようになっていた。そうなると、イヨンジの住民との交渉の矢面に立たされるのは僕であった。こちらでは、元々は木村さんと僕の2人で少ないながらも奨学金や学用品・医薬品の寄附、学校の修繕などを、自腹を切ってやっていた。ワンバのような無茶な要求はされていなかったが、コロナ禍前の最後の滞在では、ひとりあたりの奨学金の増額、受給者の追加、小学校建設への出資など、個人ではまかないきれないような要求が聞かれるようになっていたため、それが今回の交渉でどのような方向に転がっていくか気が気ではなかった。

このような理由で、久しぶりのワンバにも気分は盛り上がらなかったのだが、現地に到着すると、少しだけ愉快な気持ちも戻ってきたのは確かであった。キンシャサからのセスナが着陸するジョルの町では、我々のカウンターパートである熱帯生態研究所のワンバ事務所所長のジャックが出迎えてくれた。彼はワンバ出身の地元住民でもある。彼の振る舞いを見ていると、今回の交渉については楽観的に捉えているようだった。彼は、地域住民と日本人研究者の関係が拗れている状態を評して、「古い結婚だ、だから仲直りすれば良いだけなんだ」と述べた。なるほどと思いつつ、この場合はどちらが夫でどちらが妻なんだろう?という疑問がわいてきた。

地域住民であるボンガンドの場合、婚姻の形態はいわゆる「夫方居住」である。つまり、男性は生涯同じ集落で生活するが、女性は婚姻に際して夫側の集落に移住するということである。婚姻の際には、夫側から妻側に「モソロ」という婚資を支払うことが求められる。また、夫婦ゲンカが発生すれば、妻は生家に帰ってしまう。そうなると、妻を呼び戻すために夫は何か妻方に渡す贈り物を持って迎えに行かなければならない。ワンバ住民と日本人研究者の場合、移動してきたのは日本人なのだから、前者が夫で後者が妻ということにならないだろうか?じゃあ、何か良いものを持って日本まで迎えに来なよ!などと夢想する。

しかし、真相は僕の想像とは全く異なっていた。ジャックが言っていた「古い結婚」の当事者は、日本人研究者と「ボノボ」だったのだ。地域住民にとって、ボノボは可愛い娘である。そこに結婚したい(調査したい)と日本人研究者がやって来た。日本人研究者は、婚姻に際して妻方親族に送る婚資モソロとして、様々な支援や援助をワンバ住民にもたらした。地域住民の認識はこうだったのである。となると、調査の中断から再開する際に、何か良いプレゼントを用意するのは日本人側であるということになる。婚姻のたとえ話は、今回の滞在を通じて様々な場面で耳にすることになったが、その本当の意味に気がついたのは地域住民とのシビアな交渉が始まってからのことであった。

会議の冒頭、村長と並んで「ワンバ、オーイェー」と決まり文句の挨拶をする古市さん(撮影:山口)

交渉の顛末は3話に書かれたとおりである。しかし、その交渉の過程で古市さんと僕が直面したのは、住民たちの拒絶と冷笑であった。とにかく、携帯電話のアンテナが建設されないことには、日本人は森に入るな、調査をするなの一点張りであった。携帯電話会社や州の計画でワンバ地域に基地局を建設する可能性があるか確認していると主張しても、「信じられない」、「すぐに町に出て確認しろ」、「歩いて行け、歩いて!」という具合であった。また、古市さんが喋り始めると、ニヤニヤしながらスマホを向けて録画をするものもいた。ワンバ地域に携帯の電波は届いていないが、都市部で利用するために携帯電話を持つことは珍しくなくなってきている。少し商才のある人物は、金回りが良くなると音楽プレーヤー兼デジタルカメラという位置づけでスマホを買うのである。僕の心をかき乱したのは、そうやってスマホを向けてくる住民の中に、以前から付き合いが深かった人々がいたことだった。彼らは、僕らの味方をしてくれるわけでもなく、ただスマホをこちらに向けてきていた。また、もっと付き合いの深い、日本人とボノボの調査をしている住民は、交渉には参加していなかった。我々は孤立していた。

結局、我々には2日の猶予が与えられ、その間に日本にいる徳山さんと戸田と相談し、返答を考えることとなった。ここでも、参加者の一部から嘲笑の声が上がった。「トダは、フルイチが責任者だから、彼を待てと言った。フルイチが来たら、今度はトダと相談するというじゃないか!」古市さんと僕は、散々馬鹿にされながら、失意の元に調査基地に戻った。古市さんは、「疲れた。怒りも感じなかったが、ただ疲れた」と語った。僕も不思議と怒りは感じず、ただただ疲労と困惑を感じていた。そして、これがイヨンジでも起こりうるのかと、暗い気持ちになった。

ここで、3話の冒頭の古市さんの発言に繋がる。この段階では、本当に荷物をまとめて基地を去る可能性もあったのだ。結局、県知事代行らの政治的力により、騒動は収まり、我々はひとまず基地を去る必要はなくなった。ワンバの話はひとまずまとまったが、僕にはイヨンジでの交渉が待ち構えていた。ワンバで以前から付き合いのあった住民組織の活動を確認する必要があったため、そちらを終わらせてから、9月に入ってようやくいつものイヨンジに向かった。

イヨンジでは、はじめはそれほど大きな混乱はなかった。まず、村長が不在で、彼女の弟らしき人物が代理人として僕を待ち構えていた。そのため、住民側との交渉には彼に同席してもらうことになった。いつもお世話になっているヤリサンガという集落に到着し、住民の主立った面々と再会を喜びつつ、到着の翌日には調査や支援のことについて話す会議を開いた。もちろん、イヨンジの村長代理を招き、同席の上である。予想通り、奨学金の受給者数と受給額で揉めたが、それはどちらかというと住民同士の間でのことであった。学校に関しては、こちらから数年かけて立て直すという計画を提示し、ワンバのものとは比べるべくもないが個人の財布でまかなうことができるギリギリの予算を提示したためか、大きな反発はなかった。

問題はそこからだった。まず、奨学金の給付と僕の持ってきた仕事の担当者決め、そして小学校再建の人足決めで、住民同士の対立が激化した。以前から、ヤリサンガという集落は出自の関係で大きく分けると2つのグループに分かれ、そこで揉め事が起こることは珍しくなかった。しかし、今回はそれに加えて、片方のグループ内の特定の家系(B家)が、それ以外の家系と対立するという状況になっていた。そして、このB家と一番激しく対立していたのが、僕がいつもお世話になっているY家だった。B家は、Y家が、とりわけその家長が日本人との仕事を独占していると責め立てた。Y家は、家長の体調不良がB家の誰かによる呪いによるものだと疑っていた。僕自身は、B家の面々とも仲良くしてのだが、コロナ禍でしばらく来られなかった間にこのような対立関係が生まれてしまっていたのである。都合の悪いことに、いつも寝泊まりしていた調査用の家が倒れてしまっていたため、今回はY家に一室を借りて宿泊することになってしまった。これが、B家の面々からすると、Y家がヤマグチを囲い込んでいるように見えたのである。

これだけでもうんざりする状況であったが、トドメは不在にしている村長から届いた手紙だった。イヨンジに移動して3日目のできごとである。彼女は所用で町に出ており、自分が戻るまで僕に仕事をするなと書いてよこしたのだ。これで、僕もヤリサンガの住民たちも、何もできることが無くなってしまった。そうなると、ますます住民間の対立は深まる。村の中をブラブラ歩こうにも、住民間の対立もあって、Y家の面々は僕を外に出したがらない。もはや、軟禁状態であった。外ではB家とY家の面々の怒号がたびたび飛び交い、その合間を縫うように集落の開発委員を名乗る面々から呼び出され、調査に関連する仕事を増やせと無理な要求を突きつけられた。それまで続けていた学用品の支援を受け取りに小学校の教員たちがやってくるも、「全然足りないが、もらっておくわ」と、異様に横柄な態度を示され、何のための支援か分からなくなった。

軟禁生活2日目には、Y家の家長の長男から、「お前が来ると、村の中で揉め事が起こる。お前がいないときは、みんなそれぞれに生活を送っていて静かなのに。お前ら日本人と関わっているから、村の連中は親父を殺そうとするんだ。俺は、お前らのために親父を失いたくないよ」と言われてしまった。返す言葉がなかった。その晩に、大雨が降るなか、部屋でちびちびと酒を飲んでいると、不意に涙がこぼれた。何をやってもうまくいかない。ホストファミリーからこんなことを言われては、フィールドワーカー失格だろう。対立している面々に、僕自身は何の恨みもない。それにも関わらず、あたかも敵のようになってしまっていて、話すこともままならない。長男の言うように、全て僕が来たことによって表面化した対立だった。そう思うと、涙が止まらなかった。その後、僕の様子がおかしいと察した同年代の連中が酒を持って訪問してくれ、彼らと過ごすことで少し気持ちは落ち着いたものの、今回の調査は諦めてワンバへ戻ることを考え始めた。

軟禁生活3日目、村長はまだ戻らない。村長代理も、流石に心配になってきたようで、今日帰ってこなければ、バイクで町に出て様子を見に行くと言い始めた。結局、日が暮れても村長は戻らなかったため、明日にはここを引き上げて、ワンバの基地に戻ろうと決心した。しかし、その直後、村長は村に戻ってきた。僕はワンバに帰りそびれてしまった。

軟禁生活4日目、村長に呼び出され、住民との会議に出席した。イヨンジに移った翌日に開催した会議の議題をもう一度確認し直すことになった。徒労感が拭えない。奨学金、調査の仕事、小学校建設、医薬品の支援など、会議での同意内容が確認されていくが、ヤリサンガの村落開発委員が、同意しなかったことをどんどんと追加し始める。この段階で会議は大混乱に陥る。僕に同行していたY家の面々や、村落開発委員、村長、小学校の教員たちなど、それぞれが大声で主張し、収拾がつかない。村長が一旦休憩を宣言し、夕方に再度集まることとなった。

夕方になって村長の家に向かうと、彼女は開口一番、彼女の取り分について口にし始めた。賄賂の要求である。他の問題も何も片付かないうちからこんなことを言い始めたため、天を仰いだ。その後のやり取りは、よく覚えていない。同行していたY家の家長が、集落内で対立する家系の批判をはじめ、村長が大声で何かをまくし立てる。僕の中で、堪忍袋の緒が切れたのがはっきりとわかった。僕は立ち上がり、「もういい。行くわ」と述べて村長の家を出た。村長の夫が引き留める声が聞こえた。彼は、話の分かる人間で嫌いではなかった。僕は彼がバイクを所持していることを知っていたため、「今晩ワンバに帰るから、バイクで迎えに来てくれ」と伝えてその場を去った。Y家の家長の呼び声も聞こえたが、無視した。道中ですれ違う住民たちが何事かと声をかけてくるが、「もう終わりや。俺はワンバに帰る」と伝えた。そのままY家の自分の部屋まで戻り、鍵をかけて荷物をまとめた。その夜は水浴びも食事も断り、ベッドに横たわって天井を眺めていた。村中で、騒動になっているのが分かった。Y家の家長は、大声を張り上げて他の家系を非難していた。その何もかもが嫌であった。

夜の9時頃、いつの間にか寝ていたようで、喧噪で目が覚めた。村長が来ているというので、部屋から出た。しかし、彼女は集落の住民たちから責め立てられており、「もう帰る」ときびすを返したところだった。彼の夫が、僕の姿を見つけて慌てて言葉を残した。「怒りを抱いたまま行ってしまうのは良くない。家族の中でも言い争うが、やがて仲直りして解決策を見つけるだろう。これもそれと同じだ。明日の朝から仕事を始めて、少しでもデータを取って帰るといい。それから、また支援の話をしよう」。彼のこういう言い方は好きであったが、僕は口を開くことができなかった。そこからのやりとりは、よく覚えていない。いつの間にか、Y家の家長の長男が怒りはじめ、村長や集落の住民たちを追い払っていた。一刻も早くワンバに戻りたかった。その晩は、食事も水分も取らずに寝た。

監禁生活5日目の朝、ワンバに戻ると再度伝えた。他の集落の住民も、昨晩の騒動を聞きつけて様子を見に来ていたが、僕の意思は変わらない。村長の夫にバイクで迎えに来てもらい、集落を発った。途中で村長の家に寄り、集落への支援は当初の予定の通りで行くということになった。外野がいなかったためか、村長は落ち着いた様子だった。長かった監禁生活に別れを告げ、清々した気持ちでワンバへと向かった、かというとそんなことはなかった。気分は、ずっと晴れなかった。

フィールドワーカーは、調査対象者たちの協力のもとに調査・研究活動を行うことができる。文化人類学を志す者として、学生時代からくり返し見聞きしてきたフレーズである。では、調査対象者の協力が得られない場合はどうなるのか。当然、その人々を対象とした調査は諦めなければならない。この、当たり前過ぎるフィールドワークの大前提が、10年以上も調査をしている集落でひっくり返るような事態が発生するとは、夢にも思わなかった。2017年に実施した河川輸送プロジェクトを経て、確かに感じていた地域住民との一体感と高揚感は、無残なまでに打ち砕かれてしまった。

2022年当時、僕は大学でのポストを探す就職活動の真っ最中であった。しかし、このときの一件は、僕のフィールドワーカーとしての矜持や自信もまた打ち砕いてしまっていた。このまま職が見つからないのであれば、人類学も研究者の道も諦めようとすら思うようになっていた。