コンゴ・声をつなぐプロジェクト(第3話)

コンゴ民主共和国でフィールドワークを続けている会員が、困難な生活を乗り越えようと奮闘している調査地の人々の生活を支援しています。コロナ禍や現地状況の悪化によって長らくプロジェクトは休止していましたが、2026年、いよいよ新たなプロジェクトが始動しました!名づけて「声をつなぐプロジェクト」です。

連載第3話は、2020年~2021年のコロナ禍による中断を経て研究活動が再開された2022年のエピソードです。活動再開は果たせたものの、住民から研究活動を継続する条件としてさまざまな要求がつきつけられ、ふたたび大きな困難に直面しました。この年がワンバ最後となった古市剛史さん(ビーリア保護支援会)による報告です。

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第3話:最後のワンバとコイとの別れ(古市剛史)

「村人たちに気づかれないように注意して、明日の朝出発できるように荷造りをしておいてください。」

ワンバの調査基地で同行の山口君たち3人にそう伝えた。2022年の8月。ワンバに着いてまだ2日目のことだった。その日、基地から6キロほど離れたワンバ村の村長宅で朝から開かれた会議は、私自身経験したことのないほどの敵意に満ちたものだった。村人たちの要求にどう応えるか、事前に村長宅でおもだった人たちと話しあったときにはそれなりの合意ができていたのだが、外の集会所に出て会議が始まると、雰囲気が一変した。最初からそう決まっていたのかと思わせるほど、一部の人たちが突然大声で自分たちの要求や私たちに対する非難を叫び始め、皆がそれに唱和した。要求がのめなければ森に入ることを許さない、おまえたちの調査助手も森に入れないと、いつもの切り札を叫び続けた。もはやとりつく島もなく、身に危険さえ感じながら逃げるように基地に戻ってきた。会議に参加した山口君と私は、正直憔悴しきっていた。私たちが早々にワンバから逃げ帰ってしまえばワンバでのボノボの調査もだめになるかもしれないけれど、もうそれでもいいとさえ思ってしまった。

私がはじめてワンバに入ったのは1983年。その頃は、一研究者が身の丈でできる程度の支援でも喜んでもらえた。ところが今や、丸木橋を鉄橋に変えろ、滑走路を舗装しろ、200万円もかかる学校を6つの集落全てに建てろなどと、その要求はエスカレートを続けた。そしてそのころには、森林地帯の奥にあるワンバに携帯電話のネットワークをひけという、私たちにはどうしようもないことが要求のシンボルのようになっていた。情報のグローバリゼーションにともない、世界が彼らに期待している森やボノボの保護と、私たちが彼らに与えているものとの大きなギャップに彼らが気づき始めているのは事実だ。それは、ただの研究者だから関係ないとは言えず、私たち自身も考えなくてはならないことだ。だが、そういったことを声高に叫び、あいつらを追い詰めればもっと取れる物があると村人をあおり立てているのは、一度村を出て都会で生活し、また村に舞い戻ってきた人たちが中心だった。

幸い、私たちを追ってワンバに入ってきた県知事代行らの一行が騒ぎを聞いて収拾にあたった。2日間にわたっていろいろなところで非公式な話し合いが行われ、騒ぎは一応の落ち着きを見せた。ただその過程で、まずは現代的なコンクリート造りの学校を村長の家の裏に建てることや、携帯電話会社との交渉のために村人の代表者をキンシャサに連れて行くことなどを約束させられた。彼らとしても、本当に私たちを追い出してしまっては元も子もないということは分かっていたのだ。

騒ぎのあとは、いつも通りのワンバの日常と森での調査が戻ってきた。とくに私たちの基地があるヤエンゲ集落の人たちは私たちに優しく、私たちを攻撃する他の集落の人たちを非難した。雇用や日常の買い物で大きな恩恵を受けているヤエンゲの人たちにとって、私たちはある意味財産であり、他の村人から守らなくてはならないものなのだ。だが彼らには大きな政治力はなく、ただただ静かに私たちに寄り添ってくれるだけだった。

はじめてワンバを訪れてから40年。翌年に定年退職をひかえていたこともあり、私はこの訪問を最後にすると決めていた。なので、調査のあとの夕方、基地の前庭に椅子を出し、旧知の人たちと話をしたり現地酒のロトコを酌み交わしたりすることに時間を割いていた。昔のきれいどころだったおばあさんたちは、その当時と変わらぬ態度で私に語りかけ、からかったり物をねだったりした。日曜日には彼女らが中心となって、オデオンと呼ばれる女性たちの歌と踊りの集まりを開いてくれた。そうこうするうち、3週間たらずの短い滞在はあっという間に終わりに近づいた。

出発前、最後の日曜日のオデオン

前回の横山君のストーリーにも出てきたが、コイの話をしておきたい。40年前にはじめてこの地を訪れた頃から、彼は全てにおいて私の先生だった。まず何よりも驚いたのは、私には落ち葉の積もった地面にしか見えない林床に、彼ははっきりとボノボの歩いたあとを見て取れるということだった。あるときなど、見失ったボノボを探して森を歩いていると、彼は2日も前の足跡を見つけ、その追跡を始めたのだ。ほらここで2つに分かれ、ここでまた合流し、ここでしばらく休み、この木に登って食べ・・・、と、まるで目の前にボノボがいるかのように解説しながら追っていく。さすがにそこまでは、と半信半疑で彼について歩いていくと、ほらそこにいる、と彼が指さした先に、たしかにボノボたちが休んでいたのだ。いつもは簡単にみつかるボノボが1週間近くも見つからなかったときなどは、「オレは怒った。必ず見つけてくるから昼飯をよこせ」といい、手渡した鰯の缶詰をもって朝からひとりで森に入り、夕方にはちゃんと見つけて帰ってきた。村では決して語られない、村人の間で飛び交う邪術の呪いのことなどを聞かせてくれたのも、昼寝をするボノボを見上げながら暗い林床に2人で座っているときだった。だが彼は、暑苦しいほど人なつっこいところがあり、「たんばこくださーい」「わたしおさけのむ」と片言の日本語をしゃべりながら、しょっちゅう基地にやってくる。あまりの煩わしさに、彼の姿を見ると窓や扉を閉めてしまう人もいた。私自身も彼のしつこさに辟易とし、何度大げんかをしたか分からない。

そんな彼も、やがて老眼が進んでボノボの足跡が見えなくなり、私自身が引導を渡すことになってしまった。だがそのあとも、彼は自分が古市のプロフェッサーだと言い続けた。川向こうの森にボノボ調査の遠征に出かけたときには、旅に同行して村人との交渉にあたってくれた。滞在先の村で村人とトラブルになったときには、驚いたことに彼は好きな酒を一切飲まず、一晩中私が寝る家の前で門番をしてくれていた。ワンバの森の観察路の精細な地図を作ろうとしたときには、GPSで軌跡を記録しながら、膨大な数の道を端から端まで歩いてくれた。窮地の横山君を助けてくれたことからもわかるように、ある意味彼は私たちみんなのサポーターのような存在だったのだ。

いよいよワンバをあとにする日、私は夜明けがまだ遠い3時頃、基地の前に椅子を出して夜警にコイを呼びに行かせた。少し離れて椅子を並べ、暗い前庭を眺めながらちびちびとロトコを飲み、とりとめもない思い出話をした。彼は涙もろいところがあって、人々が見送りに集まるときにはいつも姿が見えなくなる。だからそれより前に、彼と最後の時間を過ごしたかったのだ。たぶん彼もそれが最後になると気づいていたに違いない。

最後に贈った時計を身につけるコイ

その後ほどなくして、彼は膵臓がんがわかり、やがて帰らぬ人となった。だが私は、最後に十分な時間を彼と過ごしたことで、あまり寂しいとは思わなかった。ワンバ村との関係はその後破壊的な出来事があって一旦全ての活動を中断したが、紆余曲折を経て昨年からはまた昔ながらの調査活動が始まっている。私とコイに限らず、それぞれの研究者には深い思い入れのある村人との関係があり、そういった関係が私たちをワンバに結びつけてくれているのだろうと思う。私は調査隊の代表を後進の徳山さんに譲り、保護活動に関する側面支援だけを続けている。今はもうワンバに行きたいとは思わないが、それは年齢とともにあの厳しい道のりや村人との関係に対する耐性が衰えてきたことに加え、コイのいないワンバに戻った自分の姿をあまり想像したくないということもあるのだ。