コンゴ民主共和国でフィールドワークを続けている会員が、困難な生活を乗り越えようと奮闘している調査地の人々の生活を支援しています。コロナ禍や現地状況の悪化によって長らくプロジェクトは休止していましたが、2026年、いよいよ新たなプロジェクトが始動しました!!名づけて「声をつなぐプロジェクト」です。
連載第2話は、研究活動休止の発端となった2020年のコロナ禍の状況について、現地調査からの退避を余儀なくされた横山拓真(ビーリア保護支援会)が紹介します。
第2話:地獄に仏—新型コロナウイルスとワンバからの緊急帰国(横山拓真)
2020年3月22日。ワンバの調査基地でノートパソコンを開き、日課となっていた衛星メールのチェックをしていると、一通のメールが届いていた。
「ついに来てしまったか……」
胸の奥にざわりとした感覚が広がる。おそるおそるメールを開いて文面を追うと、その予感はやはり現実のものとなった。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、調査の中断と緊急帰国を命じる京都大学からの通達であった。
さかのぼること、およそ2か月半。2020年1月8日、私は2度目のボノボ調査のため、日本を発ってコンゴ民主共和国へ向かった。初めてワンバで調査を行ったのは2018年。半年にわたる滞在を終えて帰国してから、再びこの地に戻るまでには思いのほか時間がかかってしまった。ようやく再訪がかなった今回の調査に、胸は大きく高鳴っていた。一方で、博士論文の執筆に必要なデータを集めなければならないという焦りも頭の片隅にあった。もっとも、その時点で、新型コロナウイルスのことなど、日本でも、ましてやこの遠いアフリカの地でも、ほとんど話題に上ることすらなかった。
1月16日。首都キンシャサからジョル、さらにワンバへと続く、いつもの長い旅路を経て、ようやく調査地にたどり着いた。久しぶりのワンバに感慨を覚える間もなく、村人たちが次々と調査基地に押し寄せてくる。再会を心から喜んでくれる人もいれば、酒やタバコ、あるいは金銭を求めてくる人もいる。待ち望んでいたはずの2度目の調査だったが、「ああ、そういえばこういう場所だったな」と、どこか冷静に、わずかな失望を覚えている自分もいた。そんな人だかりの中から、一人の老人がゆっくりと歩み出て、私に握手を求めてきた。
コイ・バトルンボ。
ワンバで調査をしてきた研究者であれば、誰もがその名を知る人物である。1973年の調査開始当初からトラッカー(森の案内人)として働き、卓越した観察力でボノボ研究の発展に大きく貢献してきた。しかし、私自身は彼の森での勇猛な姿を直接見たことはなく、その活躍はもっぱら武勇伝として耳にするばかりだった。すでに定年を迎え、近年の調査からは退いていた彼は、私にとっては、毎日のように調査基地を訪れては酒やタバコ、金銭を求めてくる厄介な存在にしか映っていなかった。正直に言えば、このときの私はコイ・バトルンボが嫌いだった。できることなら関わりたくないと常々思っていたのである。だが、この印象は、その後の調査中断と緊急帰国という出来事のなかで、大きく覆されることになる。
Pic 1. コイ・バトルンボ(右)。ワンバに到着してビデオ日記を撮影していたら映り込んできた。
ワンバに到着し、久しぶりの森でのボノボ観察にようやく体が慣れはじめた2月ごろ、衛星メールを通じて、新型コロナウイルスの流行に関する情報が断片的に届くようになった。インフラの整っていないワンバでは、村人たちが外の情報を得る手段はほとんどない。そのため、衛星メールを使える私だけが、世界の状況を知ることができていた。何も知らないまま平穏に過ごしているワンバとは対照的に、世界が急速に混乱へと向かっていることを知る。その落差に、どこか現実味のなさを感じながらも、「いずれそのときが来る」という予感だけは、次第に確かなものになっていった。
いざというときにすぐ動けるようにと、調査基地の一時閉鎖や帰国に向けた準備を、少しずつ進めるようになった。とはいえ、その作業は決して気が進むものではなかった。できることなら、このまま調査を続けたい。時間も労力も大金もかけてようやく戻ってきたワンバをまたすぐに離れなければならないのか。そんな思いが常に頭をよぎっていた。
日本に帰るべきだという理性的な判断と、帰りたくないという葛藤。そのあいだで揺れ動きながら、断片的に伝わってくる世界情勢や感染拡大のニュースに触れるたび、心はかき乱されていった。当時、新型コロナウイルスは未知の存在であり、情報は錯綜していた。いま振り返れば冷静に見られることも、このときに はそうはいかない。何が正しく何が危険なのか、判断すること自体が難しかった。衛星メールでのみ伝わる断片的な情報であれば、なおさらである。このようなアフリカの奥地で感染すれば、十分な医療を受けることはできない。最悪の場合――といった思いを巡らせすぎて、日を追うごとに不安が大きくなっていった。
それでも日中は森に入り、いつもと変わらずボノボの観察を続ける。観察に集中しているあいだは余計なことを考えずに済む。だが、一日の終わりに基地へ戻り、静けさのなかでふと我に返ると、「そのとき」はすぐそこまで迫っているのではないかという感覚が、じわじわと胸に広がっていった。
そして、3月22日。ついにその通達を受け取った。新型コロナウイルスに関する情報を最初に耳にしてから、すでに1か月以上が経っていた。このころの私は、ある程度気持ちを整理し、安全に、そしてできるだけ迅速に帰国するための心の準備もできていた。
しかし、混乱は別のところで起きた。ワンバの人びとである。これまでも、調査基地の一時閉鎖や緊急帰国の可能性については、調査アシスタントや村人たちに繰り返し説明してきた。だが、いざ正式に決定したことを伝えると、村は一気に動揺に包まれた。
「ワンバでは流行していないのに、どうして帰るんだ?」
「研究者たちはいつ戻ってくるんだ?」
「あなたたちがいなくなったら、私たちはどうやって生活していけばいいんだ?」
次々に投げかけられる問いに、私はうまく答えることができなかった。自分だって帰りたくない。それでも帰らなければならない。そして、いつ戻って来られるのかもわからない――そう繰り返すしかなかった。せっかく覚悟を決めて、冷静に帰国の準備を進めていたはずだったのに、目の前で不安と戸惑いをあらわにする人びとと向き合ううちに、その決意は少しずつ揺らいでいく。気がつけば、私自身もまた、パニックになっていたのかもしれない。念願だった2度目の調査がこのまま終わってしまう。その現実を前にして悔しさを抑えきれず、(今思えば笑い話だが)涙がこぼれることもあった。
Pic 2. 日課であったビデオ日記を撮影しながら、涙を流す横山
悔しさや不安を抱えたまま、それでも調査基地の一時閉鎖と帰国の準備を進めていくしかなかった。ここで何か大きな問題が起きれば、私だけでなく、ワンバの将来にも影響してしまうかもしれない。無事に日本へ帰国すること――それがいま最も優先すべきことだった。身を切る思いで、ワンバの将来を考えて行動しているつもりだったが、その思いが周囲に届いているのかはわからない。気がつけば、孤独を感じていた。心身ともに疲れ切っていたが、それを労わってくれる人も、支えてくれる人もいないように思えた。誰にも頼ることができないアフリカの奥地で、私一人でこの状況と向き合っている――そんな感覚に強くとらわれていた。
そんな不安と混乱の中で、救いの言葉を投げかけてくれたのがコイ・バトルンボであった。3月24日。ワンバを離れる前日。もう一度、調査アシスタントや村人たちを集め、今後のワンバのことについて話し合う場を設けた。だが、この日も混乱は収まらず、怒号が飛び交う場面さえあった。そんなときだった。どこからともなくコイ・バトルンボが現れて、私の隣に腰を下ろした。ざわめく人々をピシャリと制し、ゆっくりと口を開いた。
「今までだって、ワンバの調査が中断されたことはあった。コンゴ紛争やエボラ出血熱の流行のときもそうだった。今回も、これまでのことと変わりはない。日本人研究者は必ず戻ってくる。横山もまた、必ずここに戻ってこられる。いまは不安かもしれない。だが大丈夫だ。安心して日本に帰りなさい。」
そう言って、コイ・バトルンボは静かに私の肩に手を置いた。地獄に仏とは、まさにこのことだったのかもしれない。あれほど嫌っていたコイ・バトルンボの言葉が、心身ともに疲れ切っていた私の心を、静かにほどいていく。すべての重圧から解放されるようなその一言で、私は確かに救われたと感じた。今回の渡航が志半ばに終わってしまったことは、やはり悔しくてならない。それでも、必ずまたここに戻ってくる。そしてそのときには、真っ先にコイ・バトルンボと再会し、酒を酌み交わそう。そう心に決めて、別れの朝を迎えた。
3月25日。コイ・バトルンボと固く握手を交わし、「tokomonana(また会おう)」と声をかけて、ワンバを発った。日本までの帰路もまた、容易なものではなかった。ジョルではチャーター機(国内線)のフライトが二度にわたってキャンセルとなり、一週間以上足止めされることになった。ようやくキンシャサに戻ることができたものの、今度は日本へ向かう国際線が確保できない。さらに、ロックダウンの影響もさることながら、風評被害によってアジア人が利用するバスやホテルが襲撃されたなどといった情報も領事メールによって伝えられ、キンシャサはいつも以上に緊張が漂っていた。帰国の見通しは立たず、不安な時間だけが過ぎていった。それでも、いつか必ずワンバに戻るのだと心に決め、目の前の困難にひとつひとつ対処していった。
最終的には、ワシントンD.C.行きの避難便に乗ることができ、数日間ホテルに滞在したのち、シカゴを経由して日本へ帰った。日本に帰国できたのは4月13日のことであった。のちに聞いた話によれば、このときの世界的な混乱の中で、京都大学に所属する研究者で海外フィールドに長期間取り残されたのは、私一人だけだったらしい。
その後、2026年3月に私は再びワンバへ戻ることになる。しかし、そのときには、コイ・バトルンボはすでにこの世にいなかった。再会の折に酒を酌み交わそうとした約束は、果たすことはできなかった。2026年のことは、この連載のもう少し先で記すことにしたい。
2020年の新型コロナウイルスの流行は、長期間にわたって日本人研究者のワンバでの調査を中断させただけでなく、これまで築かれてきた研究者と村人との関係性にも、少なからぬ影響を及ぼしたのかもしれない。
Pic 3. 2026年撮影。コイ・バトルンボの墓
Pic 4. 2020年撮影。酒をねだるコイ・バトルンボ。R.I.P.
ワンバの森で撮影したボノボたちの映像はこちらのYouTubeチャンネルよりご視聴できます。






