「全ては神さまが決めること」(タンザニア)

井上 真悠子

タンザニア全土を対象とした統計では、おおむね人口の約1/3がキリスト教徒、1/3がイスラム教徒、残りが伝統宗教信仰者だと言われている。しかし、東海岸部、特にザンジバルに限れば、9割がイスラム教徒である。もっとも、タンザニア大陸部からザンジバルに移住してくる人も多いため、ザンジバルでもクリスチャン人口がずいぶんと増えている印象は否めない。イスラム教徒にせよキリスト教徒にせよ、タンザニアで出会う人たちはとても信心深く、それぞれの宗教規範にのっとって、神を信じている。一方、日本で生まれ育った私は、神社に初詣に行き、数珠をたずさえてお葬式にも参列し、教会での結婚式にも参列するけれど、改めて「お前の宗教はなんだ?」と問われると、うーん・・・神道的な思想が入った日本ならではの仏教系かなあ、なんて、何ともあやふやな答えになってしまう。

「神を持っていないなんて、可哀想に。改宗する?」と、イスラム教徒・キリスト教徒を問わず、タンザニアの友人達には何度も誘われている。大人だけでなく子どもからも勧誘を受け、「一緒にコーラン学校(子供用)に通おう!」と誘われたりもした。彼らにとっては、信じる神がいない私は「可哀想」らしい。なぜだろう。

イスラム女性ばかりが暮らす家庭に居候していた私は、家の女性たちのお祈りの場を毎日見ていた。お祈りの時間を過ぎても子どもたちが何もしない時には、「お祈りは済んだの?」男の子には「モスクに行かないの?」「神さまが見てるよ、バチ当たるよ」なんて、自分はイスラムへの改宗も済んでいないくせに、大人ぶってせかしてみたりもした。異教徒ながら、私は、家事や育児に追われている女性たちが一日に5回の数分間だけ、静かな「神さまと自分の時間」を過ごしている空気が好きだった。彼女たちのように、つらいことがあっても常に神を信じて、神を思ってお祈りをしながら大きくなれば、子供たちもまっすぐ育ってくれるような気がした。

「神さまが決めることだから」「神さま次第だから」「神さまは全て見てるから」ザンジバルでは、何かが思い通りにならなかったり、つらいことがあった時には「神」の名がよく使われる。神さまが後々つじつま合わせをしてくれることを期待しながら、神さまの采配だから仕方ないんだと、自分自身の心の整理をつけるのだ。日本の価値観から見ると、神さまなんているかいないかもわからないものに頼るなんて、非科学的で無意味なことに見えるだろうか。もしくは、もっと自分で責任持って努力して生きろよなんて、嫌う人もいるだろうか。

去年の春、共通のザンジバル人の知り合いをもつ日本の知人が末期癌になり、他界した。彼の病気が発覚した時期に偶然タンザニアにいた私は、日本との連絡係になりながら、彼の病状や伝言を、現地の知人たちに伝えていた。「今日はメールが来てたよ、元気そうだったよ、よろしく言っていたよ。」そんな他愛もないことを伝えに行くたび、「彼の病気が快方に向かうように、一日でも長く生きられるように、私は毎日5回のお祈りのときに、毎回神さまにお願いしますから。そう彼に伝えて欲しい。」と、彼の旧友のおばあさんに、目に涙を溜めながら頼まれた。癌は、タンザニアでも致死率の高い病気として十分に認識されていた。

おばあさんの言葉を伝えると、日本の彼からも「何とかもう一度ザンジバルの地を踏みたい。元気になりたい。もう一度、彼女たちに会いに行きたいです。」と、胸が痛くなるような返事が来た。余命いくばくもないと診断された状態で、私自身、できることといえば、おばあさんと同じく祈ることしか思い浮かばなかった。そして、予定よりも帰国を早めておばあさんたちから預かった彼への贈り物を抱え、私がタンザニアを飛び立ったのとほぼ同時刻、彼は、日本で息を引き取った。帰国後、彼の霊前に供えられた贈り物は、美しい金色の貫頭衣(イスラム男性の礼服)だった。

あと二日、いや一日でも帰国を早めていれば、せめて存命中に旧友たちからの贈り物やメッセージを届けられていたら、それを希望に、少しでも彼の命は延びたかもしれないのに、せめて亡くなる前に少しでも喜んでもらえたかもしれないのに・・・そんなことを思って悔やんでいたとき、ふと、いつもザンジバルの家の女性たちに言われていた「Yote ni kazi ya mungu(全ては神さまのなさることだから)」という言葉が頭をよぎった。生きるも死ぬも、出会うも別れるも、全ての巡り合いは神さまが決めることなんだから、人間が何とかしようなんて、何とかできるなんて、思ってはだめなんだよ、と。だから彼女たちは毎日祈り、神に自分自身の心をゆだねることで、日々の苦しみや理不尽な出来事を乗り越えていたのだ。

例えば何か絶望的な状況に陥ったとき、それを受け入れるしかどうしようもないとき、彼らのように信じる神を持っている人たちは、神にすがることで救われるという意味で、たしかに「幸せ」なのかもしれない。彼らの言うように、信じてすがれる神すら持たない私は、人間の身ひとつで全てを請け負って苦しまないといけない「可哀想」な存在なのかもしれない。そして、「神の存在なんて信じない」なんて余裕の姿勢でいられるのは、つまりは神にすがらなくても生きていられるからで、きっと、それはとても恵まれた状況に生きているということなのだろう。

亡くなった彼が荼毘にふされたとき、焼き場から上がったその煙に、偶然飛行機が通りかかったらしい。彼の奥様は、「たぶんね、あの人は、その飛行機に乗ったと思うの。ずっと行きたがってたから、今ごろ久しぶりのザンジバルを楽しんでると思うわ。」と、つとめて明るく語ってくれた。信じることで救われるなら、神でも仏でも祖霊でも何でも、いてくれていいんじゃないかと思う。それぞれの信心によることで海を越えて大事な人の無事を願い、天にすがることで理不尽な出来事に対する心の整理をつけられるなら、その心を誰に否定されるいわれもないだろう。煙になって飛行機に乗った彼の魂が久しぶりのザンジバルを満喫していることを、私も信じて冥福を祈りたい。

ザンジバルの青空

 

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。