ウジャンジャ・スングーラは、いかにしてねだるか (タンザニア)

井上 真悠子

「学校に行くためにお金が要るんです・・・」「昨日から何も食べてないんです・・・」英語、時にはイタリア語で、悲しそうな顔をした少年たちが観光客相手にお小遣いをねだる。タンザニア随一のリゾート地であるザンジバル島ではよく見られる光景だ。

「ねだる」という行為は、ザンジバルではよくみられる光景である。イスラム教徒が90%以上を占めるここでは、「富める者は貧しい者へ」というイスラム的な喜捨の精神が浸透しているため、ねだること・与えることに対する抵抗が少ない土地柄なのである。しかし、ねだりをめぐる攻防戦は、観光客と現地の子供とのかけあいよりも、現地の大人同士の方がより激しい。「俺は貧しい!よってお前は俺に与えなければならない!」「いや、お前は貧しくない!俺の方が貧しい!俺の方が与えられるべきだ!」そんなやりとりが続けられた結果、最後は互いに一歩も引かず、どちらも与えないという結論で和解する。あまりに日常的に熾烈な会話がくり広げられるため、これはもはや「ねだり行為」ではなく、ある種の冗談かコミュニケーションなのではないか、と思ってしまうほどである。

しかし、ねだり行為をしやすい土地柄とはいえ、現地の人同士のそんな「ねだり合い」と冒頭の少年のような観光客に対する「ねだり」とは、少々毛色が違うものである。タンザニアでは外国人観光客と現地の人たちとの金銭感覚は数十倍ほども違っているが、街そのものが世界遺産になっているザンジバル島の旧市街・ストーンタウンでは、現地の人たちの生活の場にも観光客はたくさん入り込んでいる。そして、金銭感覚がかけ離れた両者が共存するために、そこには「白人値段(bei ya kizungu)」と「タンザニア人(普通の人)値段(bei ya kawaida/kitanzania)」が存在する。要は、「観光客からはぼったくって良し、金を出させて良し」という、暗黙の了解である。

確かに、家の前で軽食を売っている女性など、一日の純利益が50円とか100円という世界である。そんなところに1泊数千円、数万円もするホテルに泊まっている人たちが来たら、そりゃあ誰でもぼったくっていいんじゃないかと思うだろう。ましてや、観光客の中には「アフリカは貧しくて可哀想」という先入観からか、物乞いでもないごく一般の人に対していきなり一方的にペンやお金を与えたりする人もいるし、テレビでは毎日先進国からの援助額が報道されている。もらう側からすれば、そりゃあ「赤の他人にお金やモノをあげられるくらいにあり余っている人たち」に見えるだろう。

「他の国に援助するお金があるくらい、あなたの国は豊かで、飢えている人なんていないんでしょう?」と、よく言われる。日本にもホームレスの人はたくさんいるし、援助を必要としながらも援助を受けられていない人たちだってたくさんいて、みんながみんな恵まれた豊かな生活を送れているわけではない。国際援助は人道上の理由だけでなく政治的な思惑も大きく絡んでいるのであって、決して日本が豊かでお金があり余っているからアフリカに援助している、というわけではないはずである。でも、そんな国際社会の内情なんて、目の前で展開する100円vs10,000円という現実の強烈さの前には、ただ漠然とした現実味のない話にしか聞こえない。

「そんなこと言ったって、やっぱ、他国に援助するくらいあり余ってて豊かなんでしょう?」。そんなふうに思ってしまう環境だから、「観光客はお金持ちだから、金を出させても良し」という暗黙の了解が生まれるのも無理のない話なのかもしれない。そして観光客の側にも、「我々は先進国の人間なんだから」という意識があるように思う。だから、たとえ国内の問題は見ないふりをしてでも、「貧しいアフリカ」に援助してあげないといけない。与えてあげないといけない。「アフリカの人たちはこんなにもボロボロの服を着てかわいそう」だから。そんな意識があるように思う。そうしてストーンタウンでは、両者のプライドを両立させたような、奇妙な「ぼったくり関係」とも言える共存関係が成立するのである。

観光化とともに多様な価値観が流れ込み、さまざまな情報が、時には歪曲された形で入ってくる。先進国社会から「貧しい」「かわいそう」と見下されている自分たちの立場にも気付いてくる。しかし、一歩間違えば卑屈になってしまいそうなそんな状況の中で、確かに資本は無いかもしれないし、いつも援助される側だし、ボロボロの服を着ているけれど、その状況を逆手に取れるのが、アフリカの都市に生きる人たちのたくましさだろう。

「学校に行くためにお金が要るんです」「昨日から何も食べていないんです」。そうやって悲しげな顔で観光客にお小遣いをねだっていた少年は、みごと200円くらいのお金(つまりは大人の日当に匹敵するくらいの金額)を観光客からせしめると、観光客が立ち去ったその直後、露天商相手に「このネックレスいくら?200円までまけられない?」と大人顔負けのませた口調で交渉を始めた。一部始終を見ていた私は、「昨日から何も食べてないんちゃうんかい!!」と思わずツッコミそうになってしまったけれど、この若さにして「かわいそうなアフリカの子供」を演じて外国人観光客をひっかけ、お小遣いを得る演技力としたたかさ。脱帽ものである。傍で見ていた私自身、途中まで本当にストリートチルドレンかと思い込んでいたくらいの「かわいそうな子」っぷりであった。

観光客が去った後、彼の表情やふるまいは「かわいそうなストリートチルドレン」から、一気に「ちょっと不良ぶってる良いトコの坊ちゃん」へと変化した。彼はまるで舞台が成功した後の役者のような爽やかな顔で目をくりくりさせて友人を呼び寄せ、夜の露天で嬉しそうにネックレスを品定めしていた。「ネックレスなんか買ってないで、せめて貯金しなさいよ・・・」と、喉もとまで出かかったけれど、彼自身の手腕で得た小遣いである。通りすがりの私が口を出すことではないか、と思い直し、そっと言葉を飲み込んだ。都市でうまく生きていくためには、どんなチャンスも商売に転換できる思考の柔軟さと、相手を丸めこめるくらいのしたたかさが必要である。観光客へのねだり行為は、ここでは「貧しいアフリカ人」というイメージ(夢)を売る「商売」へと転換されており、見ていた私は彼の突然の豹変ぶりに驚いてしまったけれど、少年はただ、彼なりの「商売」をしていたにすぎないのだ。

夕暮れの海辺には、観光客や地元の少年たちが集う

*タイトルにある「ウジャンジャ」とは、スワヒリ語で「巧妙、利口、賢しい、ずる賢い、駆け引きが上手いetc.」といった、商売や世渡りの上手さ、したたかさなどを表す言葉。スングーラ(ウサギ)は、ウジャンジャなものの代名詞としてよく使われる動物である。

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。