人生を探しに(タンザニア)

溝内 克之

「人生を探しにいったんだ。朝、目が覚めたときに決めたんだよ。自転車に乗り、ケニアまで走った」。ひ孫を膝に抱えながら、ラスワイ老は若いころの冒険譚を語りはじめた。

ラスワイ老

タンザニアにおいて「商売人」として有名なチャガ人。その故郷キリマンジャロ山間部の村々には、都市で商売人として過ごした日々の思い出を語ってくれる多くの老人たちが、余生を過ごしている。私は、調査と称し村の老人たちの冒険譚を聞きまわっていた。ある人は、古着売りとして、別の人は料理人や職人として都市で暮らしていた。「商売で大成功した!!」という昔話も多い。老人たちの昔話はときに豪快で、ときにコミカルで、私を魅了した。眉唾ものの話も少なくないが・・・。

家を飛び出したラスワイ青年は、自転車をこぎ続け、キリマンジャロの山を下りながら北上。「その日の夕方にはケニア(当時、英国領)までたどりつき、とある村の民家に泊めてもらったんだよ」。驚く私の表情を捉えたラスワイ老は「ちゃんと挨拶するだけだ。それで泊めてもらえた。そんな時代だったんだ」と付け加えた。その翌日には小さな街にたどり着き、ある女性が経営する食堂で雇われ、そこで数か月を過ごしたという。「同じ村の人がその食堂にいたんだよ。彼が保証人になってくれた。そんな時代だったんだ」。

ラスワイ老や村の老人たちが都市へと向かった1940〜1960年代、キリマンジャロ山間部でのコーヒー生産は最盛期を迎えており、タンザニアのなかで最も豊かな農村地域だったという。それでも彼らは都市に誘惑され、商売人となっていった。「どうして街へむかったんですか?」という野暮な質問をする私に、何人かの老人は「街にはなんだってあったんだ」とニヤリとしながら教えてくれた。

青年ラスワイの旅は続いた。
食堂から逃げるように飛び出した彼がたどり着いた場所は、大都市ナイロビの下町。「親戚がナイロビにいると聞いて飛び出したんだ。今度はバスに乗ったよ」。下町の掘立小屋に暮らす親戚に寝床を借りながら職を探し、今度は同郷の女性が営む地酒を出すバーで雇われたという。そこで料理の腕を磨き、雇われながら自分の食堂を持つことを夢見た。

「数年、村に帰らなかった。小さな商売を計画していたころ、『父危篤』という手紙が届き、村に帰ったんだ。たくさんのお土産を抱えてね。ところが、手紙はウソ!!親父はピンピンしていた。私を村に連れ戻すために騙したんだよ。ははは!そして妻と結婚したんだ。」

父親から土地を与えられた彼は家を建て、自分のコーヒーとバナナを植えた。そして今の奥さんと出会い、結婚。しかし、第1子が生まれて父親となったラスワイ青年は、また村を飛び出した。親戚や同郷者が多くいたタンザニア国内の街々を転々とし、バーでの軽食販売、小さな食堂の経営などの商売を続けた。「コーヒーの収穫時期やクリスマスに村に帰り、また街へと戻ったんだよ」とラスワイ老。コーヒーがまだそれなりの現金をもたらしてくれていた時代、多くのチャガ人男性は、都市で商売人として金を稼ぎながら、村に家族を残し、村と街を往復する生活を過ごしていたという。

「街での商売に疲れた」と、ラスワイ老が街での生活を打ち切ったのは、タンザニア経済が大きく傾いていた1980年代後半だった。村に戻った彼は、コーヒー生産を続ける傍ら、街で磨いた料理人としての腕を村でも生かし、冠婚葬祭での料理を請け負う商売を村で始めた。「村一の料理人」と呼ばれるようになったらしいが、今は末の息子にその座を譲り、孫やひ孫に囲まれながら村での生活を過ごしている。

「人生を探しにいったんだ」
ラスワイ老は、彼の話に魅了される私に話の終わりを告げるように語りかけた。老人の商売人としての旅の記憶だ。

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。