砂がなければ、はじまらない:カラハリ砂漠のおいしい調理方法(ボツワナ)

丸山 淳子

カラハリ砂漠の昼は、木陰で寝ころびながら過ごすのが良い。ごろんと横になると、白い砂がやわらかく受け止めてくる。日なたにくらべると、木陰の砂は、すこしひんやりしている。さらさらと細かく、そして、パリッと乾いた砂だ。その砂が、見渡す限りの大地を覆っているのを、ぼんやり眺めながら、みんなのおしゃべりに耳を傾ける。乾季になれば、暑くってしかたのないカラハリ砂漠だけれど、木陰にいれば、それもしのげる。なにより、この砂のうえで、ごろごろと過ごすのは、ほんとに心地よい。

おしゃべりがふと途切れて、年若い青年が、日なたに出ていった。少し離れたところにつくられた、小さな砂の山の様子を見ていたと思ったら、それを崩し始めた。手近にあった木の棒を使って、砂を掘り返していく。子どもたちが、飛んだり跳ねたりしながら、彼のまわりを囲む。一番小さな娘が、嬉しそうに手をたたいている。木陰で休んでいた大人たちも、そちらのほうを見ながら、身体を起こしはじめた。

期待に満ちた目が集まるなか、彼が砂のなかから取りだしたのは、大きな肉のかたまりだった。ステーンボックの名で知られる小型の羚羊だ。皮が剥がされ、内臓と頭がはずされているだけで、ほぼまるごとのかたちで、砂のなかからあらわれた。パンパンと音を響かせながら叩くと、肉のまわりについていた細かい砂がきれいに払い落とされる。彼は、少し味見をしたのち、木陰で休んでいた年かさの男性のところへ届けた。この男性が、この肉を捕ってきた狩人だ。

瞬く間に、肉は切り分けられ、そこにいた全員に配られた。私にも、もも肉の一部が手渡される。かぶりつくと、たっぷりした肉汁が口に広がった。充分に火が通っているが、肉はやわらかくみずみずしい。臭みがないどころか、さわやかな肉の旨みが感じられる。さっきまではしゃいでいた子どもたちも静かになって、肉に夢中だ。やっぱり、こうやって調理した肉は、一番おいしい。

カラハリ砂漠で狩猟採集をしながら暮らしてきたブッシュマンは、巧みに砂を調理に使ってきた。だれかが獲物をしとめると、男性たちがきびきびと調理の支度をはじめる。最初に集められるのが、薪だ。なるべくよく乾いた、そして細い枝が望ましい。一方で、獲物の皮を丁寧に剥いでいく。さらにおなかを開けて、内臓をとりだすと、食べる部分と食べない部分に分ける。食べない部分は、狩りに貢献した犬たちのごちそうだ。集められた薪は、一か所に積まれ、火がつけられる。高く燃え上がった火は、やがて小さな炭をつくる。その炭をさらに細かく砕きながら、熱く焼けた砂と混ぜ合わせていく。これで下ごしらえは完了だ。

いよいよ、よく混ぜられた砂と炭のなかに、そのまま肉や内臓を埋める。さらにそのうえからも、また熱い砂と炭をかぶせる。なんの調味料も加えない。ただ、肉を埋めるだけだ。あとは、木陰に移動して、ごろごろしながら過ごす。そのあいだに、よく焼けた砂と炭が、肉を包みこみながら、じっくりじっくりと火を通していく。いたってシンプルな調理法だが、肉のもつ旨みが、充分に引き出される極上の調理法でもある。

こうやって調理されるのは、肉だけじゃない。野生のマメや根茎類なども、熱い砂のなかに埋められる。ゆっくり火が通り、ほくほくとした食感とじんわりとした甘み引き出される。食べ物の量が少ないときは、日頃から利用しているたき火の下で熱くなっている砂に、つっこまれることも多い。しばらくとたつと、たき火の下からは、おいしいものが出てくることになる。人々がたき火のまわりに集まる夕方、砂のなかから現れたマメをつまみながら、眺める夕日も格別だ。

カラハリ砂漠は、雨の少ない、乾いた大地だ。木々もまばらで、景色はどこまでも単調に見える。そしてこの白い砂は、農業をするには痩せすぎているといわれる。しかしブッシュマンは、この大地、そしてこの砂の恵みを存分に引き出して、上手に利用しながら豊かな生活をおくってきた。乾いた柔らかい砂のうえに寝転がり、その砂によっておいしく調理された肉を食べながら、砂のうえに残された動物の足跡を追いかけ狩りに成功した話に耳を傾ける。こんな贅沢なひとときを、カラハリの砂はいつも支えてきたのだ。

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。