日本の汚い・ベナンのきれい

村津 蘭

ベナンの道を歩く多くの日本人は道端に落ちるゴミの多さが気になるようだ。同じ町に住んでいた日本人女性は「汚い、汚い」と道を歩く度に言っていた。確かに、買い物で使う黒いビニール袋や果汁が吸い尽くされたオレンジ、壊れたサンダルなど、様々なゴミが道の上に散乱している。ビニールは長い間雨風に晒されて原型を留めず、あちこちの雑草の枝に引っかかっている。元々身の回りのものが自然に戻るものだったために、「ポイ捨てしてはいけない」という規範が緩いこともあるだろう[1]。また公共インフラとしてのゴミ収集や清掃がないことも大きな原因であると思う。

元から大してきれい好きでもない私は道端の「汚さ」が余り気になったこともなかったが、同じ派遣されたボランティア活動の中には「汚さ」を問題とするものも多かった。例えば地元の人に呼びかけボランティア清掃の日を設けたり、ゴミを再利用してキーホルダーを作ったりするような活動で、それらは「環境教育」などと呼ばれていた。しかし、多くのアフリカの場所と同様に、私が住んでいた町の人々も智恵と工夫で多くのものをリサイクルしている。ペットボトルは洗って再販売し、使い終わったトマト缶は再利用して灯油ランプを作る。中古タイヤを再利用したサンダルはとても丈夫で、農作業する人が好んで使っていた。モノを最後まで使う態度に、私は感銘を受け、自分が見習うべきものがたくさんあると思っていた。だから、ペットボトルなどの使い捨て文化や冷暖房のつけっぱなしにどっぷり浸かった国から来た人間がベナンの人に「環境教育」するなんて、ほとんど皮肉のようにもみえた。

[1] ポイ捨てについてのエッセイはhttps://afric-africa.org/essay/country/tanzania-essay/sanitation11/

 

 

トマト缶で作られた灯油ランプ

 

暮らしてみれば、汚いどころか、ベナンの人の方が私よりよっぽどきれい好きだと思うことはよくあった。例えば、ベナンでは、毎日朝家の隅々を箒ではいて回る習慣がある。毎朝、家具を動かしてたくみに短い箒を操り掃く様子を偉いなあと思いながら見つつも、自分ではなかなか真似できない。

また、水浴びに関してもそうである。私は、ベナンの友達の家族に住まわせてもらった当初、一日一度だけ水浴びしていた。その家の水はポンプ井戸から汲んできていて、井戸はそこまで遠くはなかったが、運ぶのは大変そうだったから一日一回でも多いかなあと思っていた。しかし、よくよく見ると、同じ家に住んでいる家族は朝と夜、そして暑い乾季には昼にも水浴びしている。ただ汗を流すだけではなく、身体を冷やす意味もあるのだという。ただ、赤道近くの国とはいえ、雨季やハルマッタンの最中は肌寒い日もあり、年中暑いわけではない。涼しい朝など、私は水浴びしたいと思わないのだが、朝に「もう水浴びしたか」と聞かれて「いや、昨夜したし、大丈夫」と答えると友人は微妙な顔をして「朝もした方がいいよ」とつぶやく。そこにはちょっと汚いよ、という道徳的非難のニュアンスが混じっている。そういわれてしまうと全然必要性は感じなくても、しぶしぶ水浴びをすることになる。

ただ、身体を洗うという行為は清潔・不潔だけの問題ではないようにも感じられる。ベナンでは手作りの薬用石鹸がよく売られているが、その謳い文句には「ニキビが治る」「肌がすべすべになる」以外に、「疲れがとれる」「マラリアが治る」なども混じっていることが多い。肌に触れたり塗ったりするものが体内に取り込まれ効果を発揮するとされているらしい。

また、悪霊からの攻撃から身を守るために、教会で売っている聖油や呪術師に作ってもらった薬を水浴びの水に毎朝入れているという人もいる。それらは身体の中から目に見えない力で守るものとなる。日本の感覚では、外と内の境界として「肌」という存在が歴然と存在しているが、ベナンでは「肌」はもっと透過性の高く境界は曖昧で、体内は外部の影響を受けやすいものだと捉えられている感じがする。だからこそ、身体をきれいにしておくということが重要とされるようにも思える。私の友人は身体は魂を包むものだから、魂が居心地よくするためにきれいにしておく必要があるとも言う。そして悪霊は汚い場所が好きだから、部屋や家もきれいにしておかなければならないと。

身体をきれいにすることも、部屋をきれいにすることも、ただ清潔というだけではなく、目に見えない物事に対する思想と所作を包み込んだものなのだろう。涼しい朝に浴びたくもない冷たい水を身体にかけながら、ベナン人はきれい好きだなあと私は思うのだ。

水浴び場。屋内に設置する家もある。