村尾るみこ
アフリックは20周年を迎えた。その年月より少し長い間、私はザンビアで調査をしている。それと同じ期間に、ザンビアの町でずっと仲良くしてきた「町のお母さん」がいた。彼女はアフリック2022年度会報の、栄えある表紙写真を飾った人である。このエッセイにもその会報と同じ写真を再掲する。彼女は、残念だが、昨年12月はじめに亡くなった。私は、このお母さんが亡くなったという実感をもてるようになるまで、結局5か月程度はかかった。
晩年、お母さんは家で仕立て屋の仕事をしていた。
お母さんは幼少期(ザンビアが独立する1964年より前)に、私が調査している場所から少し離れた場所にあったミッションスクールで学んだ。当時、その地方の教育は、国内でも行き届いている方だった。そしてお母さんが大きくなってからは、国際NGOなどの仕事をしていた。首長の親族だったお母さんとお父さんは、自分たちの治める土地をささやかであるが耕しながら、マーケットや家で仕立て屋を営んでいた。
お母さんがどういう人であったかを一言で言えば、色々な人をお世話してしまう人だった。ただ、相手の状況を聞いて、困難を救いたいと考えて人を助けてしまうというよりは、相手と理解し合うために助ける人、といったほうがよかった。聴覚などに障害をもつ人や(私を含む)外国人とかかわりも絶やさない人だった。お母さんのおかげで私もわずかに手話を学び、手話を使って会話することがあった。
昨年12月はじめの話に戻ると、お母さんの訃報は、彼女の孫からSNSですぐに私へ知らされた。私が、同じ12月の末にザンビアでの調査のため訪れる計画をたて、そろそろみんなに連絡をしないといけないな、と思っていた矢先のことだっだ。そして調査のため、予定通りザンビアへ渡航し、お父さんをはじめ残された家族の住む亡きお母さんの家をたずねた。お父さんやみんなから話をきいた後に、お墓参りをした。その地域独特の白い砂と、その上につくられた白い白いお墓が、雨季の晴れ間の強い光に照らされてとてもまぶしく光り、私は目をあけていられなかった。
お母さんの息子は、お母さんが亡くなる一年前に奥さんをなくしたばかりで気を落としていたのだが、私がお母さんの家をたずねたときにはすでに家族のために次のビジネスで稼ぐべく不在であった。最後までお母さんと過ごした娘も、すでに翌月から隣の県での仕事が決まっており、単身働きにいくと話してくれた。その娘はソーシャルワーカーに関する学識があり、ローカルNGOで働いていたこともあったが、出産して子育てがひと段落してからは家の近くでの仕事を探していた。しかし、いま、彼女が家族を養わなければならない。決心したんだな、と思うと同時に、やはりソーシャルワーカーとして働こうと、その国際NGOを探し当てたのだ、と彼女の前向きさを称えた。私と娘は、私とお母さんが知り合いはじめてからの思い出話に花が咲き、その日は終わった。
次の日、調査へ旅立ち、そのまま帰国の途につく私は、いつものようにみんなで写真を撮ろうといった。私やお母さんの孫たちがスマホをもつようになってからは、セルフィ―でお母さんや彼女の孫らと「おちゃらけた」写真をたくさん撮ったが、みんなでの集合写真をかかさなかった。ただし、お母さんの娘は一度も写真にうつろうとしなかった。
そうして「今回も写真にうつることに『うん』と言わないだろう」と、娘と写真を一緒に撮ることを諦めていた私たちをよそに、驚くべきことがおこった。娘が「撮ろう」と、陽の下でみんなと並んだのだ。びっくりしたがうれしかった。
その後、みんなにさよならを言って、車に乗り込んで調査へむかう途中、先ほど撮影したばかりの集合写真を見返した。青い空の下で、白い砂の上に、娘とお父さん、孫たちと私がみんなでにこにこ笑っている。娘は大地にしっかり立って、堂々とポーズをきめていた。写真から、お母さんの「あなた、また旅立つの?また来なさいね」という声が聞こえた。