きょうの太陽、あしたはなに色

山崎暢子

時間帯によって目に見える太陽の色は変わることになっているけれど、そこに、土地の人との交流がともなうことでも違った色に見える気がするという話をしたい(※1)。

フィールドに出かける前の古い記憶は継ぎはぎされているが、太陽を描くとき、わたしはよく赤色をにぎっていたように思う。多くの場合に画用紙の上方に置かれた太陽は、お昼間のものでもたいていが赤く塗られていた。太陽をはっきり白く感じだしたのは、夏休みの課題で写生のための場所選びをしていたときだと思う。画面にあえて太陽を描きこむことはなくなってしまったが、まだよく知らない景色を自転車で走り回るなか浴びた太陽の光が心地よかった。蒸し蒸しする日本の太陽でも、風に揺れる木々の葉陰にさしこむ光はほんのり白く、柔らかかった。この白はさらに10年後、アフリカに通い始めて印象を変えた。

初めてのフィールドワークで訪れた南スーダンで浴びた太陽の光は、強かった。暑いというよりも熱く、さすように痛い。コンテナを改良しただけの簡素なジュバ(南スーダンの首都)の宿にいると、蒸し焼きになってしまいそうだった(写真1)。目がくらむまぶしさ、中天の空はオレンジに見えた。それは風で舞い上がった砂埃が視界を遮っていたからであって実際の空は青かったはずだけれど、心象風景としての太陽はこのときのものがいちばん赤に近かったかもしれない(※2)。灼熱とはまさにこのことだろうかと合点がいった。

写真1 夕暮れ前のジュバ市内(2013年12月筆者撮影)

初めてウガンダを訪れたときの太陽の色はほとんど印象にない(まだ、思い出せない)。それは、ジュバからエンテベ(ウガンダの都市)に移動し、帰国するまで数日間すごしたカンパラ(ウガンダの首都)の宿でわたしが日中も寝込んでいたからなのだが、同行していた日本人研究者の先輩にもらった風邪薬「改源」をあれほどありがたいと思ったことは恐らく後にも先にもない。実際には雲間から陽がさしていたと思うが、しいて例えるならわたしの心にはどんよりした曇り空がどこまでもひろがっていた。年の瀬がすぐに迫っておりみな帰省していたのだろうか、マケレレ大学のゲストハウスの窓から見えるテニスコートに学生たちの姿はなかった。太陽はよく見えなかったけれど、わたしは熱っぽい身体を横にして天井のクリーム色を眺めているうちに、泥のように眠った。

また少し月日が経ってウガンダ北部に通うようになり、白日は温かみを帯びはじめた。白く、黄色く見えることもあるその光はやはり強く、あたたかい。朝霧につつまれ冷たかった空気を、たちまち乾かしてゆく(※3)。村人たちはふかしたサツマイモを熱々の紅茶で流しこむと、足早に畑へむかう。すっかり陽がのぼるころ、軽食を入れたバスケットをもって残りの家族も畑へと連れ立っていった。わたしはそこに帯同する日もあるし、村に残ってべつの畑の調査にとりかかる日もあった。

野帳とボールペン、GPSを手に畑へ向かうわたしに、「昼飯前には戻ってこい」と何度も村のおばあさんは言う。限られた滞在期間になんとしても「データ」を手に入れたいわたしの頭には毎朝、「そうは言っても調査がひとくぎりついたところで」とか、「なん時までにはこの作業を終わらせたいから」とかいったことがよぎるのだけど、昼にはちゃんとお腹はぺこぺこになっていた。畑でとれた季節の食材を、つくったそばから温かいうちにみなで囲む食卓が、わたしは最初、照れくさかった。日本で早くに自炊を始めたわたしにとって、何かに専念している間に食事が用意される環境はまるで極楽に思えた(※4)。出前や出先で頼むお店の味も楽しいけれど、おばあさんが出してくれる料理(写真2)はどれも絶品で、口にするたび自然と頬がほころんだ。

写真2 ウガンダ北西部の主食エニャ(サ) enya(sa)と副菜(カボチャの葉とマメ、ラッカセイのペースト)(※5)(2019年10月筆者撮影)

あるとき、調査がうまくいかずおとなげもなく悔し涙を流したわたしを横目に、調査がなんだとおばあさんは笑い飛ばした。ひとしきり泣いてすこし落ち着いたわたしも、調査がなんだと強がった。昼寝をしたあと水汲みへ行き、夕日を背に窯でつくった飯を食べそのまま水浴びをして床につく…。うっかりそんなことを考えながら、腹ごしらえをして午後の調査の準備に結局とりかかる。「こんな真昼間に何してるんだか」という呆れといぶかしみと、「またやってるよ」というからかいの混じった視線を引き受けて、午後もまた畑に向かう。カンカンに照りつけている太陽は白く、あたたかかった(写真3)。

写真3 ウガンダ北西部ウェスト・ナイル地方の丘と畑道。諸王国の位置するウガンダ各地の地形・景観とは大きく異なるが、北部にも「丘」が点在する。

(※1)本エッセイの依頼をお受けするにあたり、以下の図書に着想を得ました。レオ・レオーニ作/藤田圭雄 訳(1967)『あおくんときいろちゃん』至光社、ディック・ブルーナ ぶん・え/まつおかきょうこ やく(1984)『しろ、あか、きいろ』福音館書店。

(※2)これは2013年12月20日にジュバを出てウガンダのエンテベに向かう時の描写であり、写真1の日時とは異なります。なお、本エッセイでは基本的にサバナ気候の特徴をもつごく一部地域を紹介しています。海辺や島嶼部、熱帯雨林がひろがる地域、砂漠のひろがる地域、山岳地帯などで感じる太陽とはまた異なる印象があると思われるので、様々な景色をアフリック会員各位によるエッセイや著書にてお楽しみください。

(※3)ウェスト・ナイル内でも地域差があり、コンゴ民主共和国との国境沿いの村では朝晩に10度を下回る一方、ナイル川沿岸の村では乾季、日没後も気温が25度以下にならないことが多々あります。また、農耕以外にも、ウガンダ北東部には牧畜で暮らしをいとなむ人びともおり、ウガンダ国内には多様な植生と生業、生活様式がみられます。ウガンダについて、吉田昌夫・白石壮一郎編(2024)『ウガンダを知るための62章』明石書店などをご参照ください。

(※4)もちろん四六時中、調査のためにつきあってもらえるわけではなく、冠婚葬祭そのほか村の寄り合い、急な来客などで、いちにちの予定はさまざまに動きます。わたしが滞在していた村では、年齢性別を限定せず、手のあいた人が臨機応変に家事をこなします。

(※5)副食には、燻製した淡水魚、小魚、アリ塚でとれたキノコや、シロアリ、キャッサバの葉、ササゲ、キマメ、シマツナソ、オクラ、ナス、アマランサスなども利用されます。重要な来客のあるとき、冠婚葬祭や独立記念日などの特別な日にはウシやヤギ、ニワトリの肉も供されます。2024年末現在、ウガンダ北西部ではキャッサバが主食として普及しており、キャッサバ粉だけを用いた色つきウガリは写真のよな黄土色の見た目をしています。この地域では1920年代までシコクビエの栽培が中心であり、シコクビエにちなんだ地名やクラン名も存在するように、シコクビエは人びとの食卓を彩る重要な穀物でした。年配者たちはシコクビエのウガリのことを、紫のような赤のような「つややかな美しいエニャ」と語ります。先行研究によると、干ばつ対策によってこの地域に導入されたキャッサバ栽培が、虫害や労働力減少などの諸要因とあいまって、1940年代に拡大したとされています。キャッサバにシコクビエを混ぜると少し赤くなります。ウガリについては「ウガリ(固練り粥)」、腹もちばつぐんの「赤ウガリ」については「赤いソウルフード:ゾウに脅かされるウガリ」を、甘くないプランテンを主食とするウガンダの他の地域の食事については「つぶしバナナ」などをご参照ください。