近藤 史
焼畑のなごりの切り株にひょいっと置かれたプラスチック製のボトル。ときおり畝たての手をとめた人が近づき、ひとくち、ふたくち中身を飲んではまた農作業にもどっていく。畑をみまわすと、あちらの畝の傍らにも、こちらの草陰にも同じようなボトルやカップが見え隠れする。目印のマークや名前がナイフで刻んであり、一人ひとり、決まったボトルがあるようだ。なかを覗くと、どれもシコクビエとトウモロコシから醸造した地酒で満たされている。おや、ボトルを片手に歌い出す人の姿も。地酒でのどを潤しつつ、陽気な歌にのって、あるいは近くで働く人とおしゃべりしながら大勢のひとがリズミカルに鍬をふるうと、広い畑がみるみるうちに耕されていく。――こんなふうに、みんながマイ・ボトルをもって集まる労働の機会を、ベナの人たちの言葉でムゴーウェ(mgowe)と呼ぶ。

写真1 切り株のボトルは、市販の食用油の容器を洗って再利用したもの。奥に写る人たちは、焼畑で前年に育てたシコクビエの収穫残渣をすきこみ、畝をたてている。
マイ・ボトルの有無は労働量のとらえ方と深く結びついていて、チャマとムゴーウェは似て非なるものだった。チャマでは、事前にグループをつくり、そのメンバーで実施する農作業の種類と作業量を決めて、お互いの畑を日替わりで巡って働く。例えば畝たてや除草の作業ではその日の作業場所(畑)の畝の長さを歩幅や棒で測り、また茶摘みでは収穫した茶葉の体積を籠で測って、毎回、1人あたりの作業量を確認する。そうやって、メンバー内で等質等量の労働交換を設計し、一定期間内にきっちり遂行する。これに対してムゴーウェでは、それぞれの世帯が作業を手伝ってほしいタイミングで他の世帯に声をかける。それにこたえるかどうかの判断は自由なので、当日まで誰が来てくれるか確証はないが、助けられた経験をもつ世帯は「借りを返す」といって助けに来てくれるのが通例だ。ムゴーウェに集まった人たちは、必ず労働の最初と最後に1リットルずつ、合計2リットルの地酒をふるまわれる。そして、一人ひとりが地酒2リットルのふるまいを受けるにふさわしい労働を提供する。長いスパンでみれば、いくつもの世帯とのあいだで、それぞれ2リットルの地酒を媒介として「等価」の労働が交換されるしくみだ。(ムゴーウェでふるまわれる地酒については、別のエッセイ『酒が食事?!』で詳しく紹介している。)

写真2 ムゴーウェに集まった人たちのマイ・ボトルにふるまい酒を注ぐ
じつは、こうやって共に鍬をならべながら、それぞれが地酒2リットルにふさわしい働きをしているかどうか互いに見極めていくところに、チャマにはないムゴーウェ特有の社会的機能がある。そこでは、働き手の年齢や性別、体格、健康状態などをひっくるめて、その人の総合的な体力に応じた「ふさわしさ」が評価される。だから、同じムゴーウェに参加する25歳の健康な男性と40歳の病がちな女性では、提供する労働量が大きく異なっていて当然だし、60歳を超えたおじいさん・おばあさんが長い休憩をはさみながら働いても誰も文句をいわない。労働の種類も問わないので、焼畑の開墾作業を手伝った世帯が、トウモロコシ畑の畝たて作業の助っ人を頼んでもよい。たいていの依頼は農作業だが、珍しいところでは、草葺き屋根の葺き替え作業を頼んだケースもあった。
また、世帯の成員構成によってムゴーウェの協力相手として選り好みするような意地悪はせず、たとえば働き盛りの夫婦世帯と高齢の寡婦世帯のあいだでもムゴーウェを頼んで互いに労働力を提供しあう。したがって、自前の労働力に不安がある世帯ほど、ムゴーウェを頼めばより多くの労働力を手に入れることができて、助かることになる。シングルマザーや寡婦の世帯では、力強く斧をふるえる男性構成員を欠くことも多いが、彼らもムゴーウェを開催することで、他世帯の青壮年男性にたすけてもらって林を伐開し焼畑を開墾できる。

写真3 トウモロコシ畑の除草作業のムゴーウェにて。休憩中の仲良し老夫婦。