八塚春名
東アフリカの共通語であるスワヒリ語で、紫色はザンバラウ(zambarau)という。ザンバラウは同時に、フトモモ科のSyzygium cuminiという樹木の名前であり、かつ、その木に実る紫色の果実の名前でもある。ザンバラウという言葉の語源が、植物が先か色が先かは知らないが、ザンバラウは親指大の細長い紫色のフルーツで、アフリカの村の子どもたちにとっては庭先で採集するのが一般的だが、都市の市場で売られていることもある。
わたしとザンバラウの出会いは、2003年、初めてタンザニアに行った時だった。当時、植物利用の調査をしたいと考えていたわたしは、周囲に生える植物を採集し、新聞紙に貼り付けて標本を作り、その名前を村の人たちに聞くことを日課にしていた。その地味な作業を手伝ってくれていた調査村の友人たちが、「ザンバラウはまだ採集していないよね?」と連れて行ってくれたのが、ムゼー・マンザ(マンザじいさん)の家だった。とはいえ、友人たちは、ムゼー・マンザは堅物で怖いからザンバラウを採らせてくれないかもしれない、といい、ムゼーに挨拶をしたり断ったりせず、むしろ見つからないようにザンバラウの木を目指すことになった。到着したムゼー・マンザの家は、丘の上にポツンと立った大きな一軒家で、家の前から麓の谷へ向けて、一面に大きな畑が広がっていた。タンザニアの多くの農村では、1970年代初頭に集村化が実施されており、ほとんどの住居は道路沿いに密集している。ムゼー・マンザが暮らす村もやはりそうで、わたしが居候していた家も、また毎日の作業を手伝ってくれていた友人たちの家も、道路の近くに位置していて、隣近所とは大きな声を出せばおしゃべりが可能な距離だった。しかしムゼー・マンザの家は、まさに「ポツンと一軒家」で、「堅物で怖い」という家主を想像させるにふさわしかった。
ザンバラウはムゼー・マンザの広い畑の中にあり、紫色の楕円形の果実をたわわにつけていた。子どもたちが木を揺らして実を落としているのだろう、地上にたくさんの果実が落ちていた。ザンバラウは少し渋みがあり、正直なところ、わたしはそれほどおいしいとは思わなかったが、わたしがいる間にも、子どもたちがどんどんやって来て、あの手この手で樹上の実を落とし、手や口を紫色にしながら、ザンバラウを食べていた。
写真:ムゼー・マンザのザンバラウの木。家畜の木陰にもなっている。
その後、居候先のおじいさんが、実はムゼー・マンザと仲がよいことを知り、おじいさんが久しぶりにムゼー・マンザを訪ねるからと、わたしも一緒に行くことになった。会ってみるとムゼー・マンザはちっとも怖くなくて、久しぶりに会った旧友と日本から来たわたしを、とても歓迎してくれた。砂糖とミルクがたっぷり入った甘く濃厚なミルクティーをいただきながら3人でおしゃべりをしていると、外で子どもたちが騒ぐ声が聞こえた。するとムゼー・マンザは険しい顔になって、子どもたちがザンバラウを盗みに来ていること、子どもたちは枝を折ったり枝にぶら下がったりするから木が傷むことをグチった。それまで楽しくおしゃべりをしていたわたしは、突如、先日の自分の姿を思い出し、「おまえもか!」と咎められているような気分になったが、「わたしも盗りました」なんて告白はできず、黙っていた。するとムゼー・マンザは、わたしをザンバラウの木に案内するといった。気まずい気分を抱えながらも、告白はできないから「はい」と案内を受け、数日前に訪れたその木を見て、同じようにザンバラウを食べ、「おいしい」と当たり障りのない感想を述べた。一方、木に群がっていた子どもたちは、ムゼー・マンザの孫を除いて全員がサーっと散っていった。
後から知ったことだが、ザンバラウはインドや東南アジア原産の植物なので、タンザニアではどこにでも自然に生えるものではない。ムゼー・マンザのサンバラウは、ムゼー自身が苗を植え、だいじに育てたものだった。村内にザンバラウはたった数本しかなく、その中でもムゼー・マンザのザンバラウはとびきり立派だった。ムゼー・マンザは、その木の枝を、子どもたちが引っ張ったり折ったりするということと、誰も「実を採らせて欲しい」と断らないことに憤慨していた。わたしは枝を折ってこそいないが、大人のくせに、断りもせず子どもたちに混じって実を盗んだ自分をずいぶんと恥じたが、このことは今日までずっとムゼー・マンザには内緒のままだ。
後ろめたさを抱えてはいたが、わたしはその後、何度もムゼー・マンザの家に通った。知れば知るほど、たしかに堅物な人ではあったが、それでもわたしにはとても優しかった。ムゼー・マンザは古く伝統的なモノや暮らしを大事にしていて、今はもうほとんどの家で見られなくなった道具をたくさん持っており、わたしにいろいろなモノを見せ、暮らしの変遷を語り聞かせてくれた。そしていつも、砂糖とミルクがたっぷり入ったミルクティーを出してくれて、わたしはそれが大好きだった。
ムゼー・マンザは今から7年ほど前に亡くなった。彼の死後、わたしはほとんどあの家に行かなくなったが、一昨年にふと、ムゼー・マンザの奥さんを訪ねた。久しぶりに会った奥さんは、足が不自由で一日中木陰に座って過ごしていると語り、目も見えなくなっていたが、数年ぶりに会ったわたしのことを声でちゃんと認識してくれて、おみやげに持っていった砂糖に、「これで明日はミルクティーが飲める」とうれしそうだった。その奥さんも、昨年に亡くなった。
ここまで書いてふと、わたしがザンバラウを盗んだことを、実はムゼー・マンザは知っていたのではないかと、少し不安になってきた。というのも、村人たちはわたしの足跡を覚えている。ビーチサンダル、タイヤの廃材でつくられたサンダル、村の定期市で買える同じような靴、のどれかを履いている村人と、タンザニアには売っていないメーカーのスニーカーを履いているわたしの足跡は、明らかに違う。しかも砂地だから、足跡はちゃんと地面に刻まれ、雨が降らない乾季には、足跡は翌朝まででも残っている。「きのう来たよね?」と、伝言も何も残していないのに気が付かれ、驚いたことが何度もある。そうであれば、実はムゼー・マンザも、会う前にわたしがザンバラウの実を採りに来ていたことを知っていたんじゃないかと勘繰ってしまう。あるいは、たとえムゼー自身は知らなかったとしても、少なくともムゼーの家族の誰かは、わたしの足跡に気付いていたはずではないだろうか。知らないふりをしてくれていたのか、バレていなかったのか、今となってはわからないし、20年以上を経て、ムゼー・マンザも奥さんも亡くなり、わたし自身の後ろめたさもずいぶんと軽くなった。それでもやはり、紫色のザンバラウの実を見るたびに、これからもわたしは、ムゼー・マンザのことと、彼のザンバラウを盗んだことを思い出し、少しばかりの居心地の悪さを感じてしまうのだろう。さらに、あの甘く濃厚なミルクティーのおいしさも、なつかしく思い出される時がある。いつかまた味わいたいものだ。