緑の服

山口亮太

今回のエッセイシリーズを担当するにあたって、僕がテーマに選んだのは緑だった。特に積極的な理由があったわけではないが、これまでに調査してきたカメルーンでもコンゴ民主共和国でも、僕は熱帯林地域に住み込んでいたため、鬱蒼と生い茂った木々の様子から緑が連想されたのかなと思った。ところが、いざエッセイで何を書こうかと考え始めると、妙にカメルーンでの調査ばかりを思い出す。それも、大学院生で一番長く調査に行っていた頃の記憶だ。その反対で、コンゴでの調査のことは全くと言っていいくらい思い浮かばない。はて、これはどうしたことか?と首を捻りつつ、ネタ探しも兼ねてカメルーンでの調査中に撮影した写真のフォルダを眺めていると、あることに気がついた。僕が居候していた家のお母さんが、いつも緑色の服を着ていたのだ。

僕がカメルーンで居候していたのは、若い夫婦の家だった。ある人物から夫を紹介され、彼の家に住まわせてもらうことになったのである。正直なことを言うと、本当に居候させてもらって良いのかかなり躊躇したのだが、彼は僕のために小屋を建てておいたから自由に使って良いというので、観念して(?)お世話になることにした。彼の家、と書いたが、彼は入り婿であり、敷地と家は彼の妻のものである。彼は僕とそれほど年齢の変わらない同年代、彼の妻は彼より年上なので、僕からすれば姉程度しか年は離れていない。しかし、僕は彼女のことを最初からずっと「ママ」と呼び続けている。日本の感覚からするとちょっと(かなり?)変かもしれないが、仏語圏のアフリカでは大人の女性に対して「ママ」と呼びかけるのは一般的である。アクセントは日本での「ママ」(高→低)ではなく、低→高と二文字目の「マ」の方が高くなるので要注意である。以下では、彼女のことをママLと書く。

ママLの緑の服

写真を見返して思うのは、ママLはとにかく緑が好きだったようだということである。どの写真を見ても、緑の巻きスカートやワンピースを着用している。もちろん、普段着ている服が全て緑というわけではなかったのだが、写真を撮るときに改めて着るお気に入りは、ほとんど緑だったんだろう。近所の女性たちは、赤や黄や青などの色とりどりの服で着飾っていたので、村で緑の布だけが売られていたのではないことは確かである。でも、僕も緑の服がママLによく似合っているように感じていた。

写真を見返していて気がついたことがある。彼女の母であるママJも、やはり緑の服を着ていたのである。ママLは、自分の出身村に住んでいたため、ママJとの行き来は頻繁にあった。彼女はいつも半分酔っ払ったような、ゆったりとした口調で話す陽気な人である。ママJも緑の服をよく着ていたということを思い出すと同時に、彼女の服をいつの間にか孫たちが着ていたことを思い出した。ぶかぶかのおばあちゃんの服をワンピースのようにしてきている子どもは微笑ましく、可愛らしいなぁと思いながら写真を撮ったりしていた。大学院生の頃は暢気に面白がっていただけだったが、今になって思うのは、ママJの生活は苦しかったのだろうということだ。彼女の末の娘は、結婚したものの現金収入源となるカカオ畑は作らず、夫と共に森の中のキャンプと村を行ったり来たりしてふらふらしていた。子どもたちは、ママJが面倒を見ていた。彼女の服を着ていたのは、その子たちである。

ママJの緑の服とそれを着る孫たち

また、彼女の夫(つまりママLの父親)は、若い女性を追いかけて、国境を越えたコンゴの村に行ってしまっていた。しかも、これが初めてではなかった。カカオ畑の管理もろくにやらず、収穫と販売の時期になるとフラリと帰ってきて、自分の取り分だけ要求してまた別の女性のところに帰って行く。こんなことが続くと、普通、腹が立つだろう。ママJも、陽気な笑顔の下ではらわたは煮えくり返っていたと思うが、夫に対して愛想を尽かしていなかった。むしろ、また自分の所に帰ってくると、待っていたのである。そもそも、ママJは別の年長男性と結婚するはずだった。しかし、あまりに二人の年齢差が大きく、彼女は「お父さんみたいに思っているから結婚したくない」と断った。相手の男性側も思うところがあったようで、それには納得したらしい。その代わり、相手男性の親族の中から代わりの結婚相手を選べという話になったという。そこでママJが選んだのが、彼女の今の夫である。親が結婚相手を選ぶのが普通だった時代に、女性の方から夫となる男性を指名したのである。惚れた弱みというやつだろうか。

かくして、ママJは、他所の女の元に逃げた夫を待ちつつ、孫たちの世話をしながら生活していた。私が居候していたママLのもとを頻繁に訪れていたのも、食材や調味料を分けてもらうためだった。孫の服を買うお金もなかったため、自分のお古を着せていたのだと思う。写真を改めて見ていると、ある年にママLが着用していた巻きスカートを、その後の年にママJが着用しているのにも気がついた。こちらは日本でもよくあることだと思うが、ママJの事情を思い出してやや切ない気持ちになった。

博士論文提出後に、久しぶりに村を訪問した際には、ママJと夫は再び一緒に住むようになっていた。僕は驚いたが、ママJはいつもと変わらぬ、陽気な笑顔だった。