敵は誰だ?(タンザニア)

岩井 雪乃

マチャバじいさんは弓矢の名手だ。 「この弓矢で、俺はライオンを9頭殺したことがある。敵は2人倒したぞ」 調査をはじめて間もない頃、マチャバじいさんは、誇らしげに語った。 敵? 私が調査するイコマの人々にとって、「敵(adui)」とは誰なのか? それは実は、アフリカで最も有名な民族「マサイ」を指している。

イコマは、タンザニアのセレンゲティ国立公園に隣接して暮らしている。農耕と牧畜を主な生業としつつ、狩猟もまた重要な活動としてきた。イコマの村の東側にはセレンゲティ国立公園が広がり、多くの野生動物が暮らす。そして、国立公園をとおりぬけると、そこは、マサイが暮らすンゴロンゴロ地域になる。

マサイの青年たち

マサイといえば、日本の多くのみなさんは「戦士」「強い」「長身」といったイメージを持っているのではないだろうか。近年ではだいぶマサイの生活も変わってきた。都市で警備員や観光の仕事をしたり、学校に行って会社で働いているマサイもたくさんいる。しかし、マチャバじいさんが若かった50年ほど前は、確かにマサイの戦士集団(モラン)が活発に活動しており、しばしば牛を盗みにイコマ地域にやってきていた。じいさんからすれば、マサイは恐ろしい牛泥棒集団なのである。

マサイは「すべての牛は、神がマサイに与えたものである。従って、取り返すのは当然だ。盗んでいるのではない」という文化的規範で牛泥棒を正当化しているという。しかし、盗まれる方にはたまったものではない。牛はイコマにとっても貴重な財産だ。もちろん命がけで自分の牛を守ろうとする。マサイとの戦闘では、イコマ側もマサイ側も死人が出ることがしばしばあった。だから、イコマにとってマサイは「先祖代々の仇」なのだ。

「マサイは夜の闇に乗じてやってくる。昼間のうちに2−3人で偵察しておいて、夜になると大勢でやってくるんだ」 このため、見かけたマサイは全員「偵察隊」とみなす。「ただ歩いているだけだ」と主張したとしても、攻撃して追い払わなければならない。じいさんが若い頃は、男たちが狩猟のためにサバンナに出かけていく時、マサイは「サバンナでの危険な存在」の第2位であり、バッファローに次いで危険とみなされていた。狩猟の最中に、マサイを見つけて戦いになることもしばしばあった。狩猟は、マサイから牛を守るためのパトロールの意味も兼ねていたのだ。

「イコマの男は弓矢を使えなければならない。動物を捕って家族を養い、敵と戦って家族を守るために」 イコマの武器は弓矢だ。矢尻には、植物から抽出した毒が塗ってあり、これに当たると体がしびれて倒れ、やがて死に至る。一方、マサイの武器は槍やこん棒だ。接近戦には強いが、離れた距離の敵には近くまでつめ寄る必要がある。 マチャバじいさんは、100m離れた的に矢を命中させられるという。その腕で、マサイを追払って家族と財産である牛を守ってきたそうだ。

私の夫も「イコマの男として弓を持て」と弓矢を与えられた

時は流れて現在。マチャバじいさんがマサイとくり広げたような戦いは、すっかり見られなくなった。 マサイとの間に平和協定が結ばれ、牛泥棒は今はほとんどなくなった。「マサイは友達(rafiki)だよ」と人びとは言うようになっている。 では、今の若者に「あなたたちの『敵』は誰?」と尋ねたら、なんと答えるだろうか? 彼らが戦うべき「現代の敵」はすっかり変わってしまったように思う。

「貧困」は、「現代の敵」のひとつだろう。 グローバリゼーションの中で、近代的で便利な生活を求めるようになり、自分たちを「貧困」とみなすようになってしまった。

そして、「自然保護」もイコマの生活に大きな脅威を与えている。これは、日本人には想像もつかない「敵」だろう。 「自然保護」という国際的な美しい圧力のもとで、イコマの人びとは狩猟の権利を奪われ、動物保護区のために土地を奪われている。 畑を荒らす憎きアフリカゾウは目の前にいるけれど、「自然保護」の見えない力によって、ゾウを殺して畑を守ることはできない。

村のほうに向かっていくゾウの群れ

このように「現代の敵」は見えにくい。 この「見えない敵」と、彼らはどのように戦っていくのだろうか? 弓矢は、今でも「男の武器」として受け継がれている。けれど、「現代の敵」には役に立ちそうもない。 教育は、一つの武器になると私は信じている。だから、「セレンゲティ・人と動物プロジェクト」を立ち上げて、就学支援を続けている。 彼らの戦いを、私にできる形でこれからも応援したいと思う。

注)
マサイの牛泥棒については、エッセイ「足を向けて寝る」にも記述している。また、狩猟の禁止や土地の喪失に対してイコマの人びとがすでに実践してきた「戦い」に関しては、以下の拙著を参照いただきたい。

2008年「住民参加型保全の発展型としての土地権利運動−タンザニアとケニアの野生動物保全の歴史と現状−」『新世界地理 アフリカ㈼−バントゥアフリカ、西アフリカ沿岸部、島嶼部』池谷和信・武内進一・佐藤廉也編、朝倉書店、P56-67.

2001年「住民の狩猟と自然保護政策の乖離−セレンゲティにおけるイコマと野生動物のかかわり−」『環境社会学研究』7号pp.114-128.

ABOUTこの記事をかいた人

日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。